読売新聞糾弾事件
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1974年2月8日、読売新聞が西部本社版の紙面で東京高裁における狭山裁判の審理再開をとりあげた際、検察側の意見陳述を報道したところ、部落解放同盟の中間・遠賀地区協から抗議を受けた。 この記事は、検察側の意見陳述として 「『石川被告人の自白は完全なものとは言えないが、犯行の基本的部分では、核心に触れる供述をしており、十分信用できる』と弁護側の無罪論を全面否定した」 と、事実を客観的に報じたものだったが、部落解放同盟の中間・遠賀地区協は 「狭山裁判の内容を歴史的、客観的に説明せず、審理再開の内容だけを部分的、主観的に報道しており、社会的に部落問題で差別観念がある中で、否定的な役割を果たすものである」 と糾弾した。要は、狭山事件の報道にあたっては常に部落解放同盟の主張に沿った解説を付けよとの要求であった。中間・遠賀地区協は2月9日に電話で抗議するとともに、社側を事情聴取し、さらに遠賀町当局に「読売西部本社糾弾要綱」なる文書を4000部印刷させて闘争を開始した。この糾弾要綱は 「現在の読売新聞社西部本社の差別態度を、真に部落解放を正しく実現しうる本来の新聞社へと根本的に改造し、血の通った報道活動を実現させる。そのためには社の幹部や記者などすべての構成員の遅れた意識を徹底的に粉砕し、正しい解放意識に基づいて考え、発言し、行動するよう、読売新聞社西部本社全構成員の意識改造を完全に図る」 「部落解放報道について、解放同盟との協議協力を確認させる」 との内容であった。 6月8日には北九州市職員の同席のもとに糾弾会が開かれ、5時間にわたり吊るし上げがおこなわれ、自己批判、研修、協議制度など5項目の要求がつきつけられた。しかし思想改造や事前検閲制を要求する部落解放同盟に対し、読売新聞社西部本社は同意を拒否し、編集の自主性を主張した。 この事件につき、小倉タイムスの瀬川負太郎は「これではまったく戦前、新聞社を襲撃した右翼の論理と変らないではないか。またこの通りにことが運べば憲法が保障した思想・信条の自由、言論・出版の自由、結社の自由は有名無実になってしまう」 と部落解放同盟を批判している。
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