評論スタイル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 16:47 UTC 版)
「演奏家はその演奏だけ聴けばよいというご意見もあるわけですが、人間的なことに興味のある者としては、やはり演奏家の人間性とか、エピソードとかに関心をいだきたくなるのも人情というものでしょう。ユニークな文芸評論家=小説家の中村光夫氏が「エピソードがすべてだ」といっておられたのを記憶にとどめていますが(出典を明示できないで、引用するのは申しわけないのですが)、エピソードほど、その人の人間性のにじみでているものもありますまい」 三浦の評論スタイルはこの一文に集約されていると言って差し支えないだろう。彼は更に「エピソードを欠いている人間描写とか人物論は、スパイスのない料理にひとしい」とまで述べている。音楽そのものの描写は簡潔な印象を記すにとどめ、専らエピソードの紹介を通じて音楽家の人間像を描くことに努めるが彼のやり方であった。オットー・クレンペラーの奇行の数々に代表されるような、こんにち広く語られるようになった音楽家のエピソードには、三浦によって紹介されたものが多く含まれている。クレンペラーのエピソードもそうだが、三浦の紹介するエピソードには音楽家を神格化する類のものよりも、むしろ偶像破壊的なものが多かった(代表例はフレデリック・ディーリアス、ベンジャミン・ブリテンなど)。この点で、彼が翻訳したヒューエル・タークイの『分析的演奏論』に「人間の光と影」という副題が付いていることは象徴的である。三浦は音楽家の「光」の部分のみを描くようなことはしなかった。なおタークイの著書は、題名とは裏腹に音楽家のエピソードが中心の書物であるので、翻訳の際にも三浦の基本姿勢は貫かれていたと言えよう。自我を前面に押し出すことをせず、エピソードをして語らしめるのが彼の音楽評論であった。 略歴でも触れたように、三浦は早くから欧米の音楽事情に通じており、その紹介に努めて「海外屋」の異名をとった。例えば、有名指揮者のほとんどが所属するという音楽事務所「CAMI(コロムビア・アーティスツ・マネージメント・インク)」の存在はノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(日本語版は1996年出版)によって認知されるようになったが、三浦は、既に1970年代にはこの組織に言及していた。なお、「海外屋」と命名したのは「某音楽出版社のK部長」であるというが、それ以上のことはつまびらかでない。
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