訴訟・詐欺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/10 04:55 UTC 版)
「マリア・ブランコヴィチ (ボスニア王妃)」の記事における「訴訟・詐欺」の解説
1484年10月、マリアは大宰相に接近し、父方の祖父がラグサ共和国に預けた金のうち父に返還されなかった三分の一を返金するよう取り計らうようにスルターンに求めた。バヤズィト2世はラグサに使者を送り預金を受け取りに行かせたが、ラグサ側はすでにマリアの父ラザルに返金済みであると返書した。しかしマリアは、証文にあった父の印の真正性に疑義を呈して争う姿勢を崩さず、バヤズィト2世もこれを支持した。結局ラグサがバヤズィト2世の要求に従ったか否かは定かでないが、実際にはマリアの父や叔父の書簡から、彼女の主張を否定できる証拠が数多く見つかっている。 マラが1487年、カタリナが1490年に死去すると、マリアはシャリーアに基づき彼女たちの遺産を相続した。さらに彼女は、マラがアトス山のメギスティス・ラヴラ修道院に遺贈した数々のイコンをも要求した。女子禁制のアトス山にマリア自らが入ることはできないため、この問題にもバヤズィト2世が介入し、1492年にマリアは目的のイコンを手に入れた。その後まもなく、マリアはクシロポタモウ修道院の僧たちがかつてカタリナの金を盗んだと主張してイスラム法廷に告訴したが、それを証明することはできなかった。 1495年ごろ、マリアはストンスキ・トリブトをめぐり、またもラグサに対する訴訟を起こした。ストンスキ・トリブトとはかつてラグサ共和国がステファン・ウロシュ4世ドゥシャン以降のセルビアの君主に支払っていた貢納金を受ける権利のことで、後にはエルサレムの聖大天使ミカエル・ガブリエル修道院に収められるようになっていた。この修道院が閉鎖されたのち、マラがセルビア王家の生き残りとしてこれを受け取るようになり、マラの死後はカタリナが管理していた。マリアは自身が叔母たちの正統な継承者であるとしてストンスキ・トリブトの引継ぎを主張したが、アトス山のヒランダル修道院やアギウ・パヴル修道院は、マリアの叔母の遺言は正式なものではないとして抵抗した。修道僧たちから率直に「悪女」と評されたマリアは1500年ごろに死去し、結局ヒランダル修道院とアギウ・パヴル修道院がストンスキ・トリブトを確保した。マリアはチョルルで死去したとされ、地元の教会に母方の叔父マヌエル・パレオロゴスと並んで埋葬されたと考えられている。 マリアが起こした数々の法廷闘争や明白な詐欺を、なぜスルターンたちが強力に支持し続けたのかは分かっていない。彼女の親戚でありマラらのもとにも短期間身を寄せブランコヴィチ家と緊密な関係を持っていた歴史家テオドロス・スパンドネスは、マリアが強力な立場を持っていた理由について、彼女がスィパーヒーの一人と結婚していた(子供はいなかった)、というのもボスニアでトルコ人に捕らえられ、無理やり結婚させられた、などとする物語を記しているが、これは明らかに誤りである。
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