斎藤信治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/25 01:17 UTC 版)
斎藤 信治(さいとう しんじ、1945年 - )は、日本の法学者(刑法)。中央大学名誉教授(法科大学院)。元司法試験考査委員。新潟県出身
経歴[1]
1963年新潟県立長岡工業高等学校卒業。1963年中央大学法学部通信教育課程入学。その後、同法学部二部編入。1968年中央大学法学部卒業。同年、同法学部助手。
司法試験合格。1973年中央大学法学部助教授。1980年同法学部教授。2004年中央大学大学院法務研究科教授に就く。2015年3月中央大学大学院法務研究科教授退職。同名誉教授。
この他、1997年12月から2006年12月まで旧司法試験第二次試験考査委員や1997年4月から2001年3月まで法務省入札監視委員会委員なども務めた。また、在学中は真法会に所属。
著書
- 『刑法総論』(有斐閣、1993年初版・2008年第6版)
- 『刑法各論』(有斐閣、2001年初版・2009年第3版)
主要業績
- 『不法領得の意思 1・2・3』(法学新報 79巻8号・79巻11号・86巻4〜6号、1972年/1979年)
- 『心臓移植はまだ許されないか』(法學新報 93巻3号/5号、1986年)
- 『賄賂罪の保護法益 1・2・3』(法学新報 96巻1号・2号・96巻3号/4号・96巻5号、1989年/1990年)
- 『詐欺罪の基本的諸問題 : 訴訟詐欺・キセル乗車・自己名義クレジットカード不正使用・悪徳商法に関連して』(法學新報 103巻4号/5号、1997年)
- 香川達夫, 川端博編『刑法Ⅰ(新判例マニュアル)』(分担執筆、三省堂、1998年)
- 『過失犯における予見可能性』(中央ロー・ジャーナル 4巻2号、2007年)
- 『無罪方向における伝聞証拠等の許容性の拡張』(中央ロー・ジャーナル 6巻3号、2009年)
注釈
- ^ 『法学新報 第121巻第11・12号』(中央大学法学会、2015年3月)729-742頁。
外部リンク
齋藤信治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/22 13:49 UTC 版)
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基本情報 | ||||
国籍 |
![]() | |||
生年月日 | 1973年9月29日(50歳) | |||
出身地 | 栃木県今市市(現・日光市) | |||
ラテン文字 | Nobuharu Saito | |||
身長 | 205cm | |||
体重 | 95kg | |||
選手情報 | ||||
愛称 | ノブ | |||
ポジション | MB | |||
指高 | 265cm | |||
利き手 | 右 | |||
スパイク | 345cm | |||
ブロック | 330cm |
齋藤 信治(さいとう のぶはる、1973年9月29日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。栃木県今市市出身。
来歴・人物
父親は185cm、母親は175cm、妹は186cm、曾祖父は190cmあったという。
宇都宮白楊高校時代は無名選手であったが、日本体育大学に入学すると猛練習で成長しインカレでも活躍する。
その後、1996年東レアローズに入団し、2m超の高身長を武器にVリーグで活躍。オポジットとしてプレーしていたが、2000-2001シーズンよりチーム事情でミドルブロッカーにコンバートされた。全日本代表にも何度も選ばれ、国際大会でも活躍したが、2008年北京オリンピック出場をもって現役引退した。
現役引退後は、東レ建設での社業を行いながら[1]、バレーボールの普及活動に努めている[2]。
ノブコフの愛称は朝日健太郎によって名づけられた。1999年のワールドカップではさらにインパクトをつけるために彼の身長である205(cm)を愛称につなげ、ノブコフ205をキャッチフレーズとしてテレビ放送で使用した。
球歴・受賞歴
- 日本代表 - 1995-1997、1999、2001、2003-2008年
- 受賞歴
所属チーム
脚注
- ^ “MINATOシティハーフマラソン2023にプラチナパートナーとして協賛します。|お知らせ|会社情報|東レ建設株式会社”. www.toray-tcc.co.jp. 2024年2月9日閲覧。
- ^ “「チームで協力する楽しさ味わった」体育の出張授業 | ニュース一覧 | TORAY”. 東レ株式会社 [TORAY]. 2024年2月9日閲覧。
外部リンク
- 齋藤信治 - Olympedia (英語)
- 齋藤信治 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)
固有名詞の分類
- 斎藤信治のページへのリンク