訪問童貞会の親として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 14:06 UTC 版)
「エミール・ラゲ」の記事における「訪問童貞会の親として」の解説
ラゲは、来日直後の黒島、平戸、馬渡島での活動の傍ら、1886年(明治19年)より平戸の田崎愛苦会を霊的物的に援助。同会の会則を起草した。鹿児島主任時代の1907年(明治40年)に、洋式修道院を建設し、田崎愛苦会の女性信者数名を招き教育に携わった。愛苦会の程度を高めて、布教事業の良き協力者に育てるためであった。1910年(明治43年)1月6日、御訪問の愛苦会を結成する。1911年(明治44年)ラゲは浦上天主堂の主任司祭となり転任し、愛苦会員らは各所で適当な職に就き4、5年働いていた。1915年(大正4年)2月20日、御訪問の愛苦会の4名の修道女が、当時北米カリフォルニア州の日本移民の間で活動していたブルトン神父の依頼で渡米することとなった。ラゲは宅地を売却し、約3,000円を会の基本金として持参させた。同年3月23日、4名はサンフランシスコ埠頭でブルトン神父と出会い、のちに聖母訪問会となる集団が事実上始動した。そのあとを追って10名の会員らが渡米し、育児院「シスターズ・ホーム」、幼稚園、小学校をサンフランシスコ、ロサンゼルス、シアトルに開設する事業に関与した。1921年(大正10年)6月1日、愛苦会員らはブルトン神父とともに日本に帰った。愛苦会員らは同年8月21日、早坂京子氏の家を借りて仮修道院を設置。1924年(大正13年)6月1日、東京の大井町鹿島谷に聖マリア医院を設立し、看護師養成所も併置した。さらに大阪商工会議所会頭稲畑勝太郎氏の大井町社宅1棟を無料で借りた。ブルトン司教の指導により、この愛苦会員らの集団は、1925年(大正14年)5月8日、聖会法による東京教区付の修道会への昇格が認められ、1926年(大正15年)1月6日、東京教区立修道会「日本訪問童貞会」として設立された。その後、同会は1926年(大正15年)10月、結核患者のために鎌倉市大町に小さな家を借りて病院を開設した。1927年(昭和2年)2月、聖マリア医院を聖マリア共同病院と改称。東京の大森教会隣りに移した。1929年(昭和4年)2月、稲畑邸借家にて修練院設置。ラゲは大森の聖マリア共同病院で没した。
※この「訪問童貞会の親として」の解説は、「エミール・ラゲ」の解説の一部です。
「訪問童貞会の親として」を含む「エミール・ラゲ」の記事については、「エミール・ラゲ」の概要を参照ください。
- 訪問童貞会の親としてのページへのリンク