観音堂縁起〈紹瑾筆/〉
主名称: | 観音堂縁起〈紹瑾筆/〉 |
指定番号: | 328 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1935.04.30(昭和10.04.30) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 奥ニ元亨元年六月十七日トアリ |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
観音堂縁起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 14:15 UTC 版)
祭が行われる福寿寺は観世音菩薩を本尊とする観音堂で、安産祈願の子安観音として知られる。創立は大同元年(806年)。1950年代に手杵祭の調査をした錦耕三(朝日新聞記者)によると、観音堂の縁起には、「その昔、沖に一艘の漂流船があり、唐(もろこし)の王女と、金袋を被った8人の女﨟(お付きの女性)が一体の観音像とともに乗っていた。その金がほしくなった村人たちは、ちょうど三月の節句で餅をついていたところだったので、その杵で女たちを叩き殺して財宝を奪った。しかし、ほどなくして村に悪疫が流行ったことから王女たちの祟りを怖れ、唐船の木材で堂を建て、彼女らが護持していた観音像を祀るとともに王女を弁天様として祀った」とある。地元の伝承には多少の異同あり、王女らのほかに男性の舟子2人もいた、村人は最初一行を憐れんで食料などを与えていたが、漂流者を匿っていることが知られれば咎を受けかねないため仕方なく殺した、王女は妊娠していた、など諸説ある。現在祀られている聖観音菩薩像(県指定文化財)は平安時代末の制作のもので、地元では腹部の膨らみから身重の王女を写したと言われる。300年以上前に観音堂は焼失し、唐船漂着の古記録も焼失、堂はのちに再建された。
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