行方不明と再発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 15:43 UTC 版)
復活号は1機のみ製造され、1960年まで韓国空軍で連絡機および基本練習機として使用された。1960年に空軍金海基地で廃棄処分されようとしたが、当時大邱月同行緊急滑走路近くにあった韓国航空大学に製作実習のため寄贈された。韓国航空大学は、1963年に韓国航空初級大学に名前が変更された後、1966年2月28日に廃校になった。そして、1967年3月2日に同じ場所に慶尚工業高校(朝鮮語版)が開校することになり、復活号はその後数十年の間、倉庫に保管されたまま忘れ去られた。一方、復活号製作を指揮していた李元馥少佐は、これを全く知らないまま、1955年3月まで米空軍の技術学校で1年間維持管理研修を受けた。李元馥少佐は帰国した直後に復活号が行方不明となったニュースを耳にして復活号を探し回ったが、発見することはできなかった。その後、彼は1999年に韓国空軍に残された写真と仕様を元に復活号を実物と同様に復元し、3月25日に韓国空軍士官学校博物館に展示した。 李元馥は、2003年12月17日の中央日報に「消えた復活号を探す」という記事を掲載するに至った。幸いなことに、1974年まで慶尚工業高校の庶務課長として勤務した人物から、慶尚工業高校の倉庫に飛行機が保管されているという情報提供を受けることができ、最終的に2004年1月13日に、復活号の製作当時板金作業を引き受けた文龍浩(ムン・ヨンホ)元一等中士と共に、慶尚工業高校の地下倉庫で復活号を発見した。発見当時、復活号は外皮がほとんどないまま骨組みだけが残っており、翼、エンジン、プロペラなどの主要部品がすべて失われ形を認識することができなかった。しかし、カウリングの直筆揮毫が半分残ったままになっていたので、復活号であることを確認することができたという。また、2階の倉庫でプロペラも発見された。 復活号が発見されたことは、2004年1月15日に中央日報に掲載され世に知られた。これを受けて、韓国空軍内部で復活号の回収・復元計画が開始されることになる。発見された復活号の胴体は再利用が可能と判断され、主翼などが再制作されることになった。製作は、すでに空軍士官学校博物館に展示されているモデルを作成した第81航空整備廠(제81항공정비창)所属の整備士で構成される復元の専門チームが引き受けることになった。この専門チームの人員は、最初に復活号を制作したのと同じ27人だった。2004年6月9日には李元馥と文龍浩も参加し、第81航空整備廠の整備士たちによって復活号が地下倉庫から運び出された。この際の作業は、復活号を損傷させないよう重機を使用せずに人力のみで行われた。
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