蔚山戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
詳細は「蔚山城の戦い」を参照 築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。慶長2年12月22日、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明・朝鮮連合軍5万6,900人 が襲撃し、攻城戦が開始される。蔚山城が襲撃を受けたとの報を西生浦で聞いた加藤清正は即座に兵船に座乗して蔚山に帰還、城内に入った。明・朝鮮連合軍は、連日攻城戦を展開したが、日本軍(籠城兵10,000人)の堅い防御の前に明・朝鮮軍は大きな損害を被り攻撃は頓挫した。しかし、このとき蔚山城は未完成であり、食料準備もできていないままの籠城戦で日本軍は苦境に陥る。年が明けた翌慶長3年(1598年)1月になると蔚山城は飢餓により落城は時間の問題となる。しかし、籠城開始から10日後の1月3日、毛利秀元等が率いる援軍(13,000人)が到着し、翌4日水陸から明・朝鮮連合軍を攻撃敗走させ2万人の損失 を与えて勝利した(蔚山城の戦い)。明軍の指揮官クラスでは、遊撃楊万金戦死、千総麻来戦死、千総周道継戦死、千総李洞賓戦死、把総郭安民戦死、千総王子和戦死、哨総湯文瓚戦死、千総銭応太戦死、張応元戦死、陳観策戦死、遊撃陳寅負傷、遊撃陳愚沖負傷、という損害を出している。明将楊鎬は日本軍の追撃を恐れ、漢城まで撤退した。戦いの後、宇喜多秀家など13人は、立地上突出している蔚山・順天・梁山の三城を援軍の困難さを理由として放棄する案を豊臣秀吉に上申しているが、これに小西行長、宗義智、加藤嘉明、立花宗茂らは反対し、秀吉はこの案を却下し上申者を叱責した。日本軍の各城郭では、城の増強工事、火器の増強、兵糧の備蓄が進められ強固な防衛体制が整えられていった。各城郭の防衛体制が整うと、九州衆が城の守備のため6万4千余りの軍勢を朝鮮半島の在番として据え置き、7万の四国衆・中国衆と小早川秀秋は、予定通り順次帰国して翌年以降の再派遣に備えた。
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