四路の戦いとは? わかりやすく解説

四路の戦い(四路並進)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「四路の戦い(四路並進)」の解説

秀吉は翌慶長4年1599年)に大軍を再派遣して攻勢を行う計画発表していた。しかし、豊臣秀吉慶長3年1598年8月18日死去その後五大老五奉行中心に撤退決定され密かに朝鮮からの撤収準備開始された。もっとも、秀吉の死は秘匿され朝鮮派遣されていた日本軍にも知らされなかった。 前回敗戦後明軍では本国からの増援得て兵力は約10万となった。すでに2月頃から明軍指揮部蔚山戦役失敗反面教師にして新し作戦立案し始めた。つまり、10万兵力動員して陸軍日本軍拠点らを同時に打撃する一方水軍退路遮断させることであった9月に入ると明・朝連合軍は軍を三路(東路軍中路軍、西路軍)に分かち一路では水軍がこれを補助しながら、蔚山泗川順天総力挙げた攻勢出た水陸方面での挟撃通じて朝鮮半島残留していた日本軍壊滅させるというこの構想は、いわゆる「四路並進策」と通称された。日本軍沿岸部築いた堅固な守りの城(倭城)で迎え撃った

※この「四路の戦い(四路並進)」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「四路の戦い(四路並進)」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「四路の戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「四路の戦い」の関連用語

四路の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



四路の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの文禄・慶長の役 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS