四路の戦い(四路並進)
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「文禄・慶長の役」の記事における「四路の戦い(四路並進)」の解説
秀吉は翌慶長4年(1599年)に大軍を再派遣して攻勢を行う計画を発表していた。しかし、豊臣秀吉は慶長3年(1598年)8月18日に死去。その後、五大老や五奉行を中心に撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。もっとも、秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかった。 前回の敗戦後、明軍では本国からの増援を得て兵力は約10万となった。すでに2月頃から明軍指揮部は蔚山戦役の失敗を反面教師にして新しい作戦を立案し始めた。つまり、10万の兵力を動員して陸軍が日本軍の拠点らを同時に打撃する一方、水軍に退路を遮断させることであった。9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路(東路軍、中路軍、西路軍)に分かち、一路では水軍がこれを補助しながら、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出た。水陸方面での挟撃を通じて朝鮮半島に残留していた日本軍を壊滅させるというこの構想は、いわゆる「四路並進策」と通称された。日本軍は沿岸部に築いた堅固な守りの城(倭城)で迎え撃った。
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