著作の応酬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:37 UTC 版)
三一権実諍論に関する著作としては、 ≪徳一側著作≫ 『法華肝心』2巻 『法華権文』1巻 『中辺義鏡』20巻 『慧日羽足』3巻 『遮異見章』3巻 『義鏡要略』7巻? 『法相了義灯』11巻 『通破四教章』1巻 ≪最澄側著作≫ 『照権実鏡』1巻 『依憑天台集』1巻 『守護国界章』9巻 『決権実論』1巻 『通六九証破比量文』1巻 『法華秀句』5巻 などが挙げられる。論争の主要な流れとしては、 徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。 徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。 最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。 となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる。 一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。 天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
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