著作の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:40 UTC 版)
劉邦は、秦末の反乱に加わって身を起こし、秦が滅んだ後は項羽と争って破り、天下を得た。陸賈はその下で使者として交渉にあたり活躍した。劉邦が皇帝になってから、陸賈は儒教の教典である『詩経』や『書経』を盛んに引用し、褒め称えた。劉邦は儒者嫌いで、「おれは馬上でこれ(天下)を取ったのだ。詩書にかまっておられるか」と罵った。陸賈は「馬上でこれを得ても、馬上でこれを治められましょうか」と答えた。さらに、呉王夫差と晋の智伯(智瑶)は武に頼ったために滅び、反逆で天下を得て殷と周を興した湯王・武王の例からも文武の並用が長久の道であると説いた。続けて、「もしも秦が天下を統一したあと、仁義に則り古代の聖王を見習っていたら、陛下が天下をお取りになれたでしょうか」と言った。劉邦は不快になったが、陸賈の言い分の正しさを認めた。劉邦は、秦が天下を失い、自分が天下を得たわけ、また諸国の成功と失敗について書いてくれと陸賈に頼んだ。陸賈は国の存亡を解き明かした12篇の書を著し、1篇ができるごとに奏上した。そのたびに劉邦がほめないことはなく、左右の者が「万歳」と言った。これが『新語』である。 著作の年代は、劉邦が天下を得た紀元前202年から死ぬ紀元前195年までに収まる。やや後の方に傾くであろう。
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