苗字との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/05 00:56 UTC 版)
平安中期ごろ、特に東国の発祥当初の武士層の間で、朝廷との関係において名乗る姓名とは別に、自らの所領(名:みょう)に通称名(字:あざな)を並べる通称が広まっていった。例えば、鎮守府将軍を歴任した平良文(たいらのよしふみ)という人物は、相模の村岡に所領=名田を経営しており、兄弟で5番目だったことから「村岡五郎(むらおかのごろう)」と自称した。村岡が名であり、五郎が字であり、「村岡五郎」全体で名字といった。荘園公領制成立以前の武士は封建領主としての確固たる領地を持たず、一般の田堵負名と同様に名田の経営権を国衙との契約で付与されることで、治安維持担当者としての武力を維持する経済的基盤を与えられていたのである。そのため、この時期の武士の所領は名田を単位としており、名田を名字の地とした。 しかし、11世紀に荘園公領制が成立すると、多くの武士は荘司、郡司、郷司、保司に任命され、荘園、または公領の郡、郷、保を確固たる所領とするようになっていき、田堵負名を自らの支配下に置いていった。そのため、この時期になると武士の名字の地(本貫地)は荘園、郡、郷、保を単位としたものに変化した。例えば、畠山荘司 平次郎重忠(はたけやまのしょうじ へいじろうしげただ)は武蔵国男衾郡畠山郷(畠山荘)を荘司として所領としている家系である。また亘理権大夫 藤原経清(わたり ごんのたいふ ふじわらのつねきよ)は陸奥国亘理郡を郡司として所領としたのである。こうした名字のあり方は鎌倉時代の御家人級の、室町時代の国人級以上の上級武士の間で引き継がれていく。 ところが、時代が下ると、名田を経営する百姓身分に属する一般の田堵負名の中からも、自らが経営請負をする名田の属する荘園公領を所領とする武士に、軍役を申し出て武士身分の一角に食い込み、名田の支配権を確固としたものにして所領としていこうとする動きが生じた。いわゆる地侍である。そのため、室町時代以降の新興の中・下級武士たちの間では、再び名田を単位とした名字の名乗りが一般的になっていった。 このように、名田は日本の「名字」の発祥、日本人の姓の歴史・発祥の一つに深い関わりを持っている。
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