航海をめぐる状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 09:55 UTC 版)
地中海の航海者の中でブリテン諸島に到達したのはピュテアスが最初ではない。さらに古いペリプルスである Massaliote Periplus の内容は4世紀ローマの詩人 Avienus がかなり長く引用している。この現存しないペリプルスはマルセイユから出航した船のもので、紀元前6世紀、マッシリアが建設されて間もなくのものとされている。その内容は主にスペインやポルトガルの南岸についてのものだが、アルビオン(ブリテン島の古名)を経由して「聖なる島」(アイルランド島)を訪れたという簡単な記述がある。 ピュテアスが出発した時期は不明である。当時カルタゴがジブラルタル海峡を握っており、他国の船を通さなかった。そのため19世紀末までの歴史家は、ピュテアスがロワール川かガロンヌ川河口まで陸路で行ったのではないかと推測した(根拠は全くない)。カルタゴによる封鎖から脱するため、昼は海岸に潜み、夜だけ帆走したのではないかという説もあった。 20世紀になると新たな説が浮上してきた。紀元前4世紀には地中海西部のギリシア植民都市(特にマッシリア)はカルタゴと友好関係にあったとする説である。マッシリアはカルタゴに対して軍事的優位に立っていたとする説であり、紀元前6世紀末と紀元前490年に両者が戦争してマッシリアが勝利したという[要出典]。そのためカルタゴはマッシリアと協定を結び、それ以降イベリア半島の地中海沿岸への植民都市建設に際して問題も発生しなくなったという。実際、考古学的にも地中海西部でギリシア製陶器が減少した時代はなく、カルタゴ製の工芸品と並んで出土することも多い。 またグナエウス・ポンペイウス・トログスによれば、マッシリアはローマが共和政となる以前から親密な同盟国だったという。マッシリアはローマが紀元前396年にウェイイを征服するのを手助けし、紀元前390年にローマがガリア人に包囲されたアッリアの戦いの際にはマッシリア人が寄付を募ってローマを支援した。マッシリアはローマ元老院にも議席を持っていた。 紀元前348年、シケリア戦争中だったカルタゴとローマは休戦協定を結んだ。ローマはシチリアの市場を使うことができ、カルタゴはローマで商売ができることになった。カルタゴが捕虜にして奴隷としたローマ同盟国の市民は解放された。ローマは地中海西部には手を出さないことになったが、マッシリアにはその条項は適用されなかった。ピュテアスが航海を行った紀元前4世紀後半、マッシリアとローマとカルタゴの関係は比較的平穏で、マッシリア人は自由に海を行き来できた。実際、その航海についての文献にはカルタゴとの問題があったという証拠は全くない。 ピュテアスの航海の最初の部分については、ストラボンがエラトステネスの文章を参照して概説しているが、ピュテアスが出典だということで間違っているとしている。見たところピュテアスは「聖なる岬」(Ieron akrōtērion)で潮汐が終わったと述べており、おそらく現在のポルトガル南西端のサグレス岬を意味している。そこからカディスまで帆走で5日かかるとしている。ストラボンはピュテアスがこのあたりの距離をあいまいにしてタルテッソスの位置を正確に記録していないことに不満を述べている。こういった場所について航海の記録を残していることから、ピュテアスはジブラルタル海峡を通ってポルトガルの海岸に沿って北に帆走していったことがわかる。
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