自動車と航空機の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/17 08:44 UTC 版)
「ノーフォーク (ネブラスカ州)」の記事における「自動車と航空機の時代」の解説
1900年、ノーフォークの人口は3,883人を数えた。1910年には6,000人を超え、マディソン郡の人口のおよそ1/3を占めた。1915年、郡庁をマディソンからノーフォークに移す嘆願書が受理され、住民投票が行われたが、通過に必要な票数を集めることができず、否決された。その半世紀以上後、1970年代にも、郡庁を移す法案が再度提出され、1975年に住民投票が行われたが、可決に必要となる60%の票を集めることができずに否決された。 1911年、カンザス州サライナで国際メリディアン・ロード協会が設立され、西経97度線にほぼ沿ってウィニペグからテキサス州ラレドへ、そしてメキシコシティへと至るメリディアン・ハイウェイの建設プロジェクトが立ち上げられた。この道路はノーフォークも通ることになった。1924年、サウスダコタ州ヤンクトンでサウスダコタ・ネブラスカ州境になっているミズーリ川にメリディアン・ハイウェイ橋が架けられ、季節運航であった渡し船から代えられたことにより、この道路はカナダからメキシコまで通年通行可能になった。1928年、この道路は国道81号線に指定された。1939年には、国道75号線の支線で、オマハからエルクホーン川流域を遡り、ノーフォークを経由して州北部のオニールへと至る国道275号線が開通した。第二次世界大戦中、この国道のノーフォーク・オニール間は国道戦略ネットワークの一部tに指定され、資材および保守のための国庫拠出の優先度を高く設定された。 1928年に航空学校ができると、ノーフォークにおける航空交通が発展し始めた。この学校の飛行場は次第に拡張・改良されていった。1942年、公共事業促進局(WPA)はこの学校のあった地に市営空港(現ノーフォーク地域空港)の建設を始めた。第二次世界大戦中ということもあり、建設資材は限られていたものの、スーシティ飛行場等、いくつかの軍関連空港を補完する飛行場としてノーフォークには高い優先度を設定された。終戦後、地元ノーフォークの連邦下院議員で、連邦議会航空政策理事会の会員でもあったカール・ステファンは、その影響力を発揮し、この空港へのさらなる出資を確約させた。1950年代初頭には、この空港に商用の定期旅客便が就航した。
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