美容業の展開 - 晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:45 UTC 版)
「芝山みよか」の記事における「美容業の展開 - 晩年」の解説
同1961年には、実力と功績が認められて、宣仁親王妃喜久子と正仁親王妃華子の美容係を拝命した。1967年(昭和42年)には、高松宮宣仁親王にカナダ訪問に際して、その妃である宣仁親王妃喜久子の美容および着付け担当者として、宮内庁より随行員を拝命した。 1964年(昭和39年)には、父の創始した美顔術を発展させたエステが、当時は一般女性はおろか美容師にさえ認知度が低かったことから、全身美容の専門技術者養成を目指し、東京の湯島にエステティシャン養成学校「シバヤマ美容研究所」を設立した。美顔術・化粧・全身美容の専門技術者を日本でエステティシャンと呼んだのは、これが最初とされる。東京女子医科大学付属美容スクールの講師も務めた。 1969年(昭和44年)には男性参入による美容師の地位向上を願い、日本初のユニセックスサロンとして、男性スタッフのみのサロン「コワフュール・シバヤマ」を青山に開業して、話題を呼んだ。 翌1970年(昭和45年)、エステティシャンの国際組織であるCIDESCO(シデスコ)の、オランダでの国際会議にオブザーバーとして参加した。ここで日本支部の設立の許可を得た。2年後の1972年(昭和47年)、CIDESCOの23番目の支部として、日本エステティシャン協会が設立された。エステティシャンの地位確立と技術向上、エステの技術普及を目的とした専門団体は、日本ではこれが最初である。1980年(昭和55年)にはアジア初のCIDESCOの国際会議を主催し、世界各国のエステティシャンとの交流を深めた。また同1980年、エステの民間資格制度への道として、インターナショナル・エステティシャン試験を実施した。 婚礼部門にも尽力し、ヘアデザイン、着付け、エステティックと、総合的な美容を広めた。日本エステティシャン協会の他にも、日本ヘアデザイン協会、日本婚礼美容家協会など、業界団体の設立にも力を注いだ。1971年(昭和46年)から日本ヘアデザイン協会の名誉会長、1972年から日本エステティック協会会長も務めた。エステティック業界では「効果が無い」など客の苦情も少なくなかったことに対しては、「原因は技術者の勉強不足」と主張し、1988年(昭和63年)9月にはシドニーで開催されたCIDESCOの国際研究会に、技術者31人と共に参加するなど、技術者の育成にも努めた。 2009年(平成21年)6月11日、老衰のため、家族たちに看取られつつ満101歳で死去した。没後は長男の小守谷巽が日本エステティック協会の理事長を継いだ。墓碑は千葉県野田市の宗英寺にある。
※この「美容業の展開 - 晩年」の解説は、「芝山みよか」の解説の一部です。
「美容業の展開 - 晩年」を含む「芝山みよか」の記事については、「芝山みよか」の概要を参照ください。
- 美容業の展開 - 晩年のページへのリンク