美容業・文筆業
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1922年(大正11年)に再上京、放浪詩人である池宮城積宝と結婚した。しかし夫の放浪癖のため、結婚生活はわずか3か月で破綻した。2子をもうけていた美登子は、帰郷を経て生活のために上京、マリールイズ美容学校で学び、日本髪や花嫁の着付けの免許を取り、美容師となった。 1930年(昭和5年)、那覇で伊波が勉強会を開いていた家で、「うるま美粧院」を開業した。髪結いを職業とする女性は数人いたものの、美容師としては美登子が初めてであった。その一方で文筆業として、1935年(昭和10年)より琉球新報に『花園地獄』の連載を始めた。夕方の美容院の奥座敷には、新聞記者や文学同好者らの男性たちが集い、遊郭遊びの話などを楽しんでいたことから、その遊郭の情景を詳細に書き出したものであった。 戦中には美容師として、パーマネント規制の目を盗んで、数多くの女性たちのパーマを手がけて経験を積んだ。長男が戦死、次男が失踪という悲劇に見舞われたが、戦後にまた自分のできることを始めるべく、戦中に培ったパーマの腕をいかし、「みと美粧院」を開業した。1959年(昭和34年)には那覇市上之蔵町に「琉球高騰美容専門学校」を創立して、自ら校長を務め、多くの後身を育成した。 また文筆業においても、1954年(昭和29年)より沖縄タイムスで、小説『黄色い百合』の連載を開始した。大正期の素封家を題材とした作品であり、昭和初期までの女性が「男の子供を産む存在」「家を継ぐ者を産むための存在」であったこと、また家計における血統の重要性を民俗学的観点から書き出した作品であった。
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