細民部落改善事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 14:36 UTC 版)
「神戸市のスラム問題」の記事における「細民部落改善事業」の解説
明治末期には、都市での下層社会の問題は政治問題となった。スラム対策がさらに強化され、同時に「都市スラム」に住んでいた「貧民」の選別も進行。「まじめな貧民」と、「あらゆる悪徳の製造場なる木賃宿」に沈殿し周囲に「悪影響を及ぼしている貧民」は区分けされ、劣悪な住環境の木賃宿の市中心部からの強制移転や木賃宿と実態が変わらない下宿・長屋裏屋の取り締まり強化が行われ「都市スラム」の解体が進められた。行政により新たに木賃宿営業区域として指定された移転先は、市周縁部に位置していた被差別部落周辺であった。そこは長屋裏屋建築規制の対象外であり、さらに狭小・劣悪な木賃宿や二畳敷・三畳敷程度の長屋が続々と建築され、急激な都市化による家賃高騰も手伝い、「貧民」が大量に流入していった。同時にその地域は、市中から排出される塵芥の処分地とされ、元々小さな集落であった被差別部落を、膨張を続ける「都市スラム」が吸収するような形で再編成され、新川スラムは明治末期で戸数(川以東1500戸と川以西800余り)約2300戸余り、住民約15000人を擁する日本有数の一大スラムと新聞で報じられた。。 内務省は全国の警察を動かし「細民部落改善事業」を開始した。これは「下層」民衆の就学率の向上を図りながら、民衆が自力で生活改善し得るような精神の確立を目指すもので、民衆騒擾の鎮静化と治安維持を図ることが目的であった。この事業の推進のため神戸市では警察主導で矯修会、清風会、長田村一部協議会などの地域改善団体が組織された。精神面を重視した政策ではあったが就学率の向上のためには民衆の生計の基礎確立が必要であったため、こうした改善団体は盛んに授産事業を展開し地域住民の生計援助に尽力した。「新川」地域の矯修会では屑物改修事業が取り組まれ、その収入による自力更生が叫ばれた。一部協議会では職業団体を組織しての営業改善に力を入れ、清風会では神戸籠製造事業に取り組んだ。 民衆の生活難の原因の一つに米価騰貴など食料品などの生活必需品の価格の高騰があったため、神戸市は1904年(明治39年)に公設卸売市場の設置案を市会に提出した。これは価格の統一を狙ったもので、他の都市でも同様の計画が見られ、流通を合理化し食料品価格の安定を狙ったものである。神戸市の提案は市会で否決されたが、後の社会政策の先駆となった。
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