紀元前212年:ハンニバルカプアから転戦、ローマ軍再びカプアを包囲
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「カプア包囲戦」の記事における「紀元前212年:ハンニバルカプアから転戦、ローマ軍再びカプアを包囲」の解説
しかしローマ軍は諦めず、執政官2人は攻城兵器を準備し再びカプアを包囲することとした。ヴォルトゥルヌス川沿いのカシリヌムに食料を集積し、また河口のヴォルトゥルヌムの防備を強化して守備兵をおいた。また制海権強化のためプテオリ(現在のポッツオーリ)にも守備兵をおいた。これら2つの港湾要塞とローマの外港であるオスティアに、サルディニアからの食料と法務官のマルクス・ユニウス・シラノがエトルリアで冬季に集めた食料を集積した。この危機的な状況の中、ハンニバルはカプアを離れることは望まなかったが、法務官グナエウス・フリジウス・フラックスがアプリアの幾つかのカルタゴ側都市を攻撃し成功したとの連絡が届いたため、そちらに対処するためにアプリアに向かわざるを得なかった。ハンニバルはこの新しく編成されたローマ軍を殲滅する意思を固め、ヘルドニア(現在のオルドーナ)近郊で戦闘となったがハンニバルが勝利した(第一次ヘルドニアの戦い)。グナエウス・フリウィウス・フラックスは騎兵200と共に脱出したが、ローマ軍の残りの部隊は包囲されて少数に分断され、18,000の兵力のうち脱出できたのは2,000程に過ぎなかった。 その後、残存兵の再集結のために特使が派遣され、法務官のプブリウス・コルネリウス・スッラも同様の任務を与えられ、奴隷兵士を軍に戻した。執政官プルケルはデキウス・ユニウスにヴォルトゥルヌルスの防衛を、マルクス・アウレリウスにプテオリの防衛を委ね、サルディニアやエトルリアから食料が届いたら、直ちにカプア近郊の野営地に送るように手配した。プルケル自身がカプア近郊に到着すると、フラックスがすでにカシリヌムから十分な補給物質を運びいれ、包囲戦の準備を完了していた。執政官2人はガイウス・クラウディウス・ネロの率いる軍がスエッスラから到着するのを待って包囲戦を開始した。 アレクサンドリアのアッピアノスによると、カプアの城壁とローマ軍の最前線の距離はおよそ370メートルであった。カプアはハンニバルに救援を求めた。戦略的な状況はカルタゴ軍にとって不利になりつつあった。カプアはローマ軍6個軍団に包囲されており、食料は不足していた。 法務官のプブリウス・コルネリウス・スッラは執政官のプルケルとフラックスに対し、カプアからの脱出を希望する市民に対してはそれを許してはどうかと提案した。他方、ハンニバルはタレントゥムの攻略を実施し、都市そのものは得たもののローマ軍要塞の攻略は短期では難しいと判断し(第一次タレントゥム攻城戦)、ブルンディジウムに転進してその攻略を行っていたが、このときにカプアからの救援要請を受け取った。ハンニバルは自身が戻ったらローマ軍はカルタゴ軍に抵抗できないだろうと返答をした。使者がカプアに戻ると、カプアはすでに二重の濠と塁壁で囲まれていた。 紀元前212年の末、ローマ元老院からの依頼により、プブリウス・コルネリウス・スッラは両執政官に対して手紙を出し、ハンニバルがカプア周辺にいないのであれば、翌年の選挙のためにどちらかがローマに戻るよう求めた。結果、プルケルがローマに戻り、フラックスはカプアに留まることとなった。
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