戦略的な状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 01:26 UTC 版)
フランスに敵対するインディアン部族は、チカソー族の他にミシシッピ川の下流を地盤とするナチェズ族がいた。1716年以降、フランスはナチェズ族に対してもチョクトー族と組んでその殲滅作戦を展開していた。1736年までにナチェズ族の多くは殺されるか散り散りになり、チカソー族の中に逃げ込んだ者も多かった。ド・ビエンビーユはナチェズ族の残党を潰すとともにチカソー族もその勢力を減じてやろうと考えた。ド・ビエンビーユは2つの軍隊による連携作戦を考え、軍勢にこう命じた。 「インディアン達には、一目置かせる大胆な攻撃を与え、我々に対する敬意と義務の観念を植え付けることが絶対的に必要である。」 1隊は北方のイリノイ郡にいるピエール・ダルタギエットの軍隊であり、もう1隊は南部のド・ビエンビーユ自身の大きな軍隊であった。2つの軍隊は1736年3月31日にチカソー族の集落で落ち合うこととされた。 フランス南方軍は擲弾兵、正規兵、スイス兵および様々な民兵中隊を含み、1736年3月にモービルで集結した。4月始めに出発して船で川を遡りトムビグビー川に向かった。4月23日、前進基地であるトムベクベ砦に到着し、そこでフランス正規兵と民兵544名とアフリカ黒人奴隷45名を1つの部隊にして、上流でチョクトー族600名と落ち合うこととした。船と徒歩でトムベクベ砦を5月4日に出発し、合流した部隊は川を遡り続け、現在のミシシッピ州アモリーの近くに5月22日に到着した。物資や船など帰還のために必要な物を守るために宿営地の防御を施し、5月24日、北東の草原を横切り約20マイル (32 km)の所にある一番近いチカソー族の集落に向かった。 5月26日、部隊は丘の上に防御を施された3つの集落、アキア、チョカファラヤおよびアペオニーに接近した。3つの集落は集合的にロングタウンとも呼ばれていた。幾らか議論した後で、部隊は攻撃に向かった。フランス軍は典型的なヨーロッパ風隊列で、チョクトー族は分散した形で進んだ。イギリスの旗が翻る交易業者の小屋があるアペオニーは避けて、大きな防御楯すなわち「マンテレッツ」と呼ばれる敷物があるアキアの集落を強襲した。フランス軍は即座にチカソー族の陣地から銃弾の雨を食らい、マンテレッツは効果がないことがわかった。攻撃部隊は丘の斜面で動きが取れなくなり、損失が増えていった。陣地から離れた小屋を占領したものの、数時間の交戦後に敵陣地に少しの突破口も見付けられないままフランス軍は後退した。夜の間にチカソー族は周りの小屋や植生を徹底的に破壊して、その有利さをさらに強固にした。フランス軍は弾薬が不足してきており、負傷者がこれ以上増えると連れ帰るのも大変になっており、またダルタギエットから何の連絡も無かったので、来た道を引き返した。
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