米国主導から中南米主導の団体へ
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「世界ボクシング協会」の記事における「米国主導から中南米主導の団体へ」の解説
1974年、パナマで開催されたWBA総会でエリアス・コルドバ(パナマ)が、米国・カナダ人以外では初めて会長に選出される。 それ以降、アメリカ合衆国からの会長選出は無く、エリアス・コルドバ(パナマ)→マンドリー・ガリンデス(ベネズエラ)→ロドリゴ・サンチェス(パナマ)と、WBAの主導権はアメリカ合衆国から中南米諸国に移る。 1982年、ロドリゴ・サンチェス会長の急死を受けて行われたWBA会長選挙で、米国勢力の巻き返しを狙って擁立されたロバート・リーが、選挙で敗れると、米国勢力は、そのままロバート・リーを担いでWBAを脱退し、新たな世界選手権の統括機構であるIBFを設立。分裂が固定化する。一方WBAも、この選挙で選出されたヒルベルト・メンドーサ(ベネズエラ)会長が以後2015年に至るまでで会長を務め、次期会長が子息であるヒルベルト・メンドーサ・ジュニアに世襲された。しかしながら、暫定王者とスーパー王者の乱造と相まって、世界最初の世界選手権の統一統括機構であった老舗の団体としての色をなくし、主要四団体の一つに過ぎない存在に埋没しつつあるのではないかと指摘がなされている。その後父のメンドーサから息子のメンドーサ・ジュニアが会長に就任して改革第1弾としてヘビー級トーナメントの開催を発表した。 このトーナメントの開催をきっかけに各階級に存在する暫定王者(1位)の廃止政策の一つとして増加傾向の王座の減少に向けた取り組みの一つとメンドーサ・ジュニア会長は話している。出場者はタイソン・フューリー、ウラジミール・クリチコ、ルーカス・ブラウン、ルスラン・チャガエフ、フェリス・オケンド、アレクサンダー・ウスティノフ、ルイス・オルティスの7人。1回戦でフューリーとクリチコのリマッチ、オルティスとウスティノフ、ブラウンとチャガエフ2回戦でブラウンとチャガエフの勝者とオケンドが対戦する変則式のトーナメントとなっている。1回戦の一つ目が3月5日にチャガエフとブラウンの正規のタイトルマッチ(ブラウンが勝利し、準決勝がオケンドと対戦となっていたが後日薬物検査でブラウンから陽性反応が出て無効試合になり、チャガエフも再戦に応じない為オケンドが突破)、10月29日にマンチェスター・アリーナでヒューリーとクリチコのリマッチ、オルティスとウスティノフが9月17日にAT&Tスタジアムでの開催が決まった。のちに も随時だが各階級でも統一戦の指令を発令しており、本格的に暫定王座の廃止に動いており、就任時のポリシーになっている「チャンピオンは各階級1人」の実現に向け、各方面から批判が出てしまった父が実行した負の遺産の払拭に向けて動き出している。
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