箱の中のカブトムシ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:52 UTC 版)
箱の中のカブトムシはヴィトゲンシュタインが彼が痛みを探求する文脈で紹介した有名な思考実験である。 痛みはいくつかの理由から心の哲学で独特にして極めて重要な位置を占める。一つには、痛みは現れ/実体の区別を崩壊させるように見えることがある。もし事物があなたに赤として現れたなら、それは本当は赤ではないかもしれない。しかしあなたが痛みを感じているようであったなら、それは痛みを感じているに違いない。同時に、人は他人の痛みを感じることはできないが、彼らの振る舞いや訴えから推測することだけはできる。 私たちが究極的にしかし排他的に知覚することのできるたった一つの心によって感じる特別なクオリアを認めるならば、自己と意識についてのデカルト的な視点に立つことになる。私たちの意識は、やはり痛みについて、疑うことができないであろう。これに対して、ある人は自身の痛みの究極的な事実の存在は認めるが他人の痛みについては懐疑論を主張する。あるいは、またある人は行動主義者の立場をとって私たちの感じる痛みは単に神経学的な刺激に振る舞う傾向が伴っているだけにすぎないと主張する。 ヴィトゲンシュタインは、人がめいめい「カブトムシ」の入った箱を持っているコミュニティーを想像するように勧める。「誰も他人の箱の中を見ることはできず、皆が自分は『自分の』カブトムシを見ることによってのみカブトムシとは何かを知ると言っている」。 これらの人々が「カブトムシ」と言う言葉を使っても、それは何物をも指示しえない―何故ならばそれぞれの人が箱の中に入れているものが全く異なっているか、箱の中のものが常に変化していたり、箱の中が空だったということが完全に可能だから。箱の内容はいかなる言語ゲームでも無意味となる。 類推によれば、人が他人の主観的な感覚を経験できないことは問題ではない。そういった主観的な感覚について語ることが公共的な経験を通じてできるようにならないならば、その具体的な内容は的外れである。語り得るものは全て、公共的言語で語ることが可能なものである。 痛みの類推として「カブトムシ」を提供することでヴィトゲンシュタインは、痛みの事例は本当は哲学者の使用に耐えないと主張している。「すなわち、私たちが『対象と意味』のモデルに則って感覚の印象の文法を解釈するならば、対象は思考から滑り落ちて無意味になる」。
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