第13の哨戒 1944年6月 - 7月
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「スレッシャー (潜水艦)」の記事における「第13の哨戒 1944年6月 - 7月」の解説
6月14日、スレッシャーは13回目の哨戒でアポゴン (USS Apogon, SS-308)、ガードフィッシュ (USS Guardfish, SS-217)、ピラーニャ (USS Piranha, SS-389) とウルフパック "Mickey Finns" を構成し南シナ海に向かった。ウルフパックの指揮は、ガードフィッシュ座乗のウィリアム・V・「ミッキー」オリガン大佐が執った。担当海域に向かう途中、ウルフパックは航空機からの遭難信号を受信。6月27日に現場付近に到着したが、落下式のタンク以外は何も見つからなかった。その後は7月11日にレーダーで輸送船団を探知するまで航空機か漁船しか観測しなかった。7月12日、ウルフパックはバタン諸島近海でモマ01船団を発見したが、スレッシャーのみは護衛艦に邪魔されて攻撃の機会を逸した。翌7月13日に4隻は再集結。7月16日16時ごろ、スレッシャーは北緯19度15分 東経120度15分 / 北緯19.250度 東経120.250度 / 19.250; 120.250の地点で水平線上に昇る煙を発見。2時間後、大輸送船団であることを確認。この船団は高雄からマニラに向かうタマC21船団だった。まずピラーニャが陸軍輸送船志あとる丸(大阪商船、5,773トン)を午前中に撃沈したあと、深夜23時ごろになってスレッシャーが攻撃。北緯18度53分 東経119度32分 / 北緯18.883度 東経119.533度 / 18.883; 119.533の地点で貨物船西寧丸(大連汽船、4,918トン)と護衛艦に対して魚雷を3本ずつ発射。すぐさま反転して艦尾発射管から2番目の貨物船に向けて魚雷を4本発射し、4回の爆発を確認。この攻撃で西寧丸を撃沈した。スレッシャーは魚雷を再度装てんしたあと、2度目の攻撃で別の貨物船とタンカー、護衛艦に対し魚雷を発射。直後に爆雷攻撃があったが、スレッシャーは3度目の攻撃の準備を急いだ。3時45分ごろに3度目の攻撃で残っている貨物船とタンカー、護衛艦に対し魚雷を発射。そのうち、陸軍船祥山丸(興国汽船、2,838トン)に魚雷が2本命中し、タンカーに1本命中したように見えた。祥山丸はあっという間に沈没していった。一連の攻撃でスレッシャーは全ての魚雷を使ったため、ウルフパックから離れてミッドウェー島に向かった。スレッシャーは6隻35,100トンの戦果を主張したが、戦後の JANAC の調査では2隻7,700トンしか認定されなかったが、この行動に対して海軍称賛部隊章(英語版)を授与された。7月27日、スレッシャーは44日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。艦長がジョン・R・ミドルトン・ジュニア少佐(アナポリス1935年組)に代わった。
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