第二次7カ年計画
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「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の記事における「第二次7カ年計画」の解説
1978年から第二次7カ年計画がスタートした。この計画を策定、そして当初の指揮を取ったのは政務院総理(首相)の李鐘玉を中心とした経済テクノクラートらであったと考えられ、計画の遂行状況は当初、北朝鮮の経済計画としては順調であったと見られている。 しかし1980年に開催された朝鮮労働党第六回党大会以降、状況は一変する。この党大会で金正日は朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員、政治局員、書記、党中央軍事委員会委員に選出され、金日成の後継者であることが公然の事実となった。 第六回党大会では「80年代の十大展望目標」と呼ばれる経済建設目標が採択された。十大展望目標では既存の第二次7カ年計画の目標数値の4割増以上の数値が目標とされ、結果として経済計画を中途変更することとなった。そして十大展望目標の達成のために「80年代速度創造運動」などといった大衆動員が指令され、このことによって北朝鮮の経済は再び混乱していった。 第二次7カ年計画の遂行を混乱させたもう一つの要因が、金正日によって提唱され、建設が進められた「記念碑的建造物」である。1982年に七十歳を迎える金日成の偉業を称えるために、金正日は主体思想塔、凱旋門などといった建造物を建設していった。これらの建設も第二次7カ年計画の当初計画にはなかったもので、非生産的な建設事業にも関わらず多くの労働力や資材が投入され、北朝鮮の経済建設に悪影響をもたらした。 1982年以降、北朝鮮当局は経済実績の公表を次第に行わないようになり、北朝鮮経済の不振が予想されるようになった。1984年には金正日が軽工業、水産業、農業の増産を図る政策を発表し、同年には外資導入による経済活性化を図るために「合営法」が施行されるなど経済運営の見直しも行われたが、これまでの政策を根本的に変更するには至らず、北朝鮮経済の不振は続いた。そして1985年2月になって、第二次7カ年計画の達成が公表されたが、発表された数値に具体性が乏しくその達成に疑問が残った。
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