第二次7カ年計画とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 第二次7カ年計画の意味・解説 

第二次7カ年計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 09:35 UTC 版)

朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の記事における「第二次7カ年計画」の解説

1978年から第二次7カ年計画がスタートした。この計画策定、そして当初指揮取ったのは政務院総理首相)の李鐘玉中心とした経済テクノクラートであった考えられ計画遂行状況当初北朝鮮経済計画としては順調であった見られている。 しかし1980年開催され朝鮮労働党第六党大会以降状況一変する。この党大会金正日朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員政治局員書記党中央軍事委員委員選出され金日成後継者であることが公然事実となった第六党大会では「80年代の十大展望目標」と呼ばれる経済建設目標採択された。十大展望目標では既存の第二次7カ年計画の目標数値の4割増上の数値目標とされ、結果として経済計画中途変更することとなった。そして十大展望目標達成のために「80年代速度創造運動」などといった大衆動員指令され、このことによって北朝鮮経済は再び混乱していった。 第二次7カ年計画の遂行混乱せたもう一つ要因が、金正日によって提唱され建設進められた「記念碑的建造物」である。1982年七十歳迎え金日成偉業称えるために、金正日主体思想塔凱旋門などといった建造物建設していった。これらの建設も第二次7カ年計画の当初計画にはなかったもので、非生産的な建設事業にも関わらず多く労働力資材投入され北朝鮮経済建設悪影響もたらした1982年以降北朝鮮当局経済実績公表次第行わないようになり、北朝鮮経済不振予想されるようになった1984年には金正日軽工業水産業農業増産を図る政策発表し同年には外資導入による経済活性化を図るために「合営法」が施行されるなど経済運営見直し行われたが、これまでの政策根本的に変更するには至らず北朝鮮経済不振続いた。そして1985年2月になって、第二次7カ年計画の達成公表されたが、発表され数値具体性乏しくその達成疑問残った

※この「第二次7カ年計画」の解説は、「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の解説の一部です。
「第二次7カ年計画」を含む「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の記事については、「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第二次7カ年計画」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第二次7カ年計画」の関連用語

第二次7カ年計画のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第二次7カ年計画のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの朝鮮民主主義人民共和国の経済史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS