竹内悌三とは? わかりやすく解説

竹内悌三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/21 15:02 UTC 版)

竹内 悌三
名前
カタカナ タケウチ テイゾウ
ラテン文字 TAKEUCHI Teizo
基本情報
国籍 日本
生年月日 1908年11月6日
大日本帝国, 東京府
没年月日 (1946-04-12) 1946年4月12日(37歳没)
ソビエト連邦, アムール州
身長 170cm[1]
体重 62kg[1]
選手情報
ポジション DF
ユース
浦和高校
1928-1932 東京帝国大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
東京倶楽部
代表歴
1930-1936 日本 4 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

竹内 悌三(たけうち ていぞう、1908年11月6日 - 1946年4月12日)は、東京府(現在の東京都)出身のサッカー選手朝鮮銀行副総裁・野球研究者の君島一郎は岳父[2]。照明デザイナーの石井幹子は娘[3]

経歴

東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)在学中よりサッカーを始め、浦和高等学校を経て、1928年に東京帝国大学に入学してア式蹴球部に入部した。在学中の1930年に開催された第9回極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦で日本代表として初出場した。

1932年に東京帝国大学経済学部卒業後は東京火災保険会社に入社。1936年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出され[1]、主将としてスウェーデン代表戦など2試合に出場した。

1944年、第二次世界大戦に伴って兵役に就き、終戦後はシベリア抑留となり、1946年4月、同地のアムール州第20収容所で死去した。

2006年日本サッカー殿堂に特別選考により選出された。

2015年、長女の石井幹子により『竹内悌三賞』が創設される[4]

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 4試合 0得点(1930-1936)


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1930 2 0 0 0 2 0
1931 0 0 0 0 0 0
1932 0 0 0 0 0 0
1933 0 0 0 0 0 0
1934 0 0 0 0 0 0
1935 0 0 0 0 0 0
1936 2 0 4 0 6 0
通算 4 0 4 0 8 0

出場

No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1930年05月25日 東京都 明治神宮外苑競技場  フィリピン ○7-2 鈴木重義 極東選手権
2. 1930年05月29日 東京都 明治神宮外苑競技場  中華民国 △3-3 極東選手権
3. 1936年08月04日 ベルリン  スウェーデン ○3-2 オリンピック
4. 1936年08月07日 ベルリン  イタリア ●0-8 オリンピック

出典

  1. ^ a b c 「オリムピックへ十六選手決定す」朝日新聞 (1936年4月23日) 2016年9月11日閲覧
  2. ^ 『人事興信録 第12版 上』キ109頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月24日閲覧。
  3. ^ 東京タワーが青色に/W杯での健闘を願う”. 四国新聞 (2002年5月25日). 2012年9月1日閲覧。
  4. ^ サッカーを愛する母と子のために ~照明デザイナーの石井幹子さんが竹内悌三賞を創設~”. JFA (2015年7月3日). 2016年5月20日閲覧。

関連文献

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「竹内悌三」の関連用語

竹内悌三のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



竹内悌三のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの竹内悌三 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS