不破整とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 不破整の意味・解説 

不破整

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/05 04:17 UTC 版)

不破 整
名前
カタカナ フワ セイ
ラテン文字 FUWA Sei
基本情報
国籍 日本
生年月日 1915年
出身地 東京府
没年月日 2004年以前
身長 175cm[1]
体重 65kg[1]
選手情報
ポジション GK
ユース
早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
早稲田大学WMW
代表歴
1936 日本 0 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

不破 整(ふわ せい、1915年頃 - 2004年以前)は、東京府出身のサッカー選手。ポジションはGK

来歴

東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)を卒業して[1]第一早稲田高等学院へ、その後早稲田大学に入学。ア式蹴球部に在籍した[2]

不破が21歳の1936年4月にベルリンオリンピック日本代表に選出された[1]が、同じ早稲田大学から代表に選出された佐野理平がスタメンを占めたため、出場機会は無かった[3]

また、早稲田大学在学中の1938年に全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝、1939年には同大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で準優勝に貢献した。

1941年春に太平洋戦争のために召集され満州に配属された[4]

なお、詳細な没年は不明であるが、2004年3月時点で故人となっている[5]

父の不破瑳磨太(1887~1947)は青年期に中央電信局の外信係だったが、頻繁に顔を合わす古野伊之助と仲良くなりジャパンタイムスに入り、国際通信社、東方通信社、新聞聯合を経て、同盟通信社から合併協定の重役2名(1名は常勤)を交流する約束に基づき電通に取締役として古野と入社。事業局長兼常務取締役(1936~41)、専務取締役(1941~42)、退社して日本新聞会理事長になり、常務理事の岡村二一とともに古野の協力者として戦時下の全国新聞社を統括した。また、兄の活は1941年6月に中国の山東省で戦死している[4]

所属クラブ

出典

  1. ^ a b c d e 「オリムピックへ十六選手決定す」朝日新聞 (1936年4月23日) 2016年8月5日閲覧
  2. ^ 兄は社長に、弟は生涯一記者に”. 賀川サッカーライブラリー. 2016年8月5日閲覧。
  3. ^ 日本代表 試合別出場記録 Archived 2009年3月3日, at the Wayback Machine.
  4. ^ a b 「不破少尉戦死」朝日新聞 (1941年6月10日) 2016年8月5日閲覧
  5. ^ 加茂健氏 心不全のため死去”. 日刊スポーツ (2004年3月26日). 2016年8月5日閲覧。

関連項目

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「不破整」の関連用語

不破整のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



不破整のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの不破整 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS