競馬場の創設
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「パリロンシャン競馬場」の記事における「競馬場の創設」の解説
ロンシャン競馬場を建設し、その後の管理を行ったのはフランス馬種改良奨励協会(フランスギャロの前身、以降は奨励協会と表記)である。奨励協会は1833年11月11日に組織され、1834年5月4日には、パリのシャン・ド・マルス競馬場において、奨励協会による最初の競馬を行っている。また、15日には場所を移しシャンティイ競馬場でも行われた。1852年になるとシャン・ド・マルスは競馬場として問題があるため、奨励協会ではロンシャンに競馬場を建設できないか話し合われるようになった。その翌年には計画実現のため、皇帝となったナポレオン3世の異父弟にしてジョッククルブの会員であるシャルル・ド・モルニーに合意を求めることとなる。 シャン・ド・マルスから移転した理由などの詳細は「パリ大賞典#ロンシャン競馬場の創設」を参照 モルニーの働きかけもあり、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンの協力を得ることに成功する。1854年8月18日にパリ市議会はロンシャン平原を市の名義で買取りブローニュの森に併合することをセーヌ県知事に一任した。この決定は8月24日から29日の勅令により承認されたが、その中に競馬場の建設も含まれていた。 1856年6月には1856年7月1日から1906年6月30日までのリース契約を結んだ。さらに、1856年12月16日には、これまで国営である帝国牧場が監督していたシャン・ド・マルスの秋開催を委譲し、春開催と同じく奨励協会が一括して管理しロンシャン競馬場で行う協約を結ぶ。この2点は12月17日付の勅令で承認された。 こうした交渉の上、2年余りをかけ建設された競馬場における最初の競走は、1857年4月27日の日曜日に大勢の群集の前で開催されている。そこにはナポレオン3世皇帝とその妻ウジェニー皇后が親臨し、ジェローム・ボナパルトとその息子ナポレオン公、ナッサウ公子、ミュラ公(英語版)といった面々がロイヤル・エンクロージャーに顔をそろえた。非貴族の上流階級はロイヤル・エンクロージャーに入れなかったためバルーシュ(英語版)型キャリッジからの観戦となった。また、パリ市民の多くもヴィクトリア(英語版)型キャリッジや水上バス、外輪船などでこの新しい催しに集まっている。その多さは、混雑により第1競走の開始時間を30分ほど遅らせなければならなかったほどである。
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