ロンシャン競馬場の創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:45 UTC 版)
「パリ大賞典」の記事における「ロンシャン競馬場の創設」の解説
シャンティイ競馬場には立地上の問題があった。パリ中心部からは北東に50キロも離れている上、鉄道もなく観戦客は少なかった。売上が少なく、賞金も低く、上等な競走馬の馬主はイギリスで走らせるほうが経済的と考えるものも多かった。一方、パリ中心部にあるシャン・ド・マルス競馬場には致命的な問題が2つあった。一つは、シャン・ド・マルスは本来は軍の演習場であり、そこに間借りして競馬を行なっていたのだが、晴天時には陸軍によって踏み固められた地面が硬すぎ、降雨があると泥沼のようになって危険だった。もう一つの問題はシャン・ド・マルス競馬場が狭いことで、一度に走れる馬は8頭が限界だった。これに対し大きな競走では40頭を超す馬が出走を希望するような有様だった。 1848年に二月革命が起きてルイ・フィリップ王が失脚した。共和制を経て1852年にクーデターによってナポレオン3世が即位した。このクーデターを主導したのが、ナポレオン3世の異父弟で、内務大臣や立法院議長として王の右腕となったシャルル・ド・モルニー公爵である。 モルニー公は将来のパリの発展を見込んでパリ郊外の土地を買い占め、邸宅を構えていた。ナポレオン3世はブローニュの森を改造し、ロンドンのハイドパークのような壮麗な庭園を造営することを思いついた。モルニー公は、所有地を売り払った資金でブローニュの森よりさらに郊外のロンシャン平原の土地を買い占めた。その土地をさらに国費で高く買い上げることで、モルニ公は莫大な利益を、王室は念願の造園用地を手に入れた。 26歳にしてジョッキークラブのメンバーに名を連ねていたモルニ公爵は、完成した庭園に客を呼び込む手段として、ロンシャン平原に競馬場を作ることを思いついた。これによって、シャンティ競馬場とシャン・ド・マルス競馬場の問題も解決するように思われた。こうして1856年にブローニュの森に隣接してロンシャン競馬場が誕生した。1857年の春に初めて開催された競馬には大観衆が詰めかけて大成功をおさめた。競馬は春と秋の2回行われ、秋開催では「グランプリ」が「帝国大賞(アンペリアル大賞、Grand Prix Impérial)」と名を変えて行なわれた。
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