ロンシャン競馬場の空爆と競馬の移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
「凱旋門賞」の記事における「ロンシャン競馬場の空爆と競馬の移転」の解説
ドイツ軍は連合軍の反撃を受け、ガソリンや飼料などの物資はさらに逼迫し、競走馬の生産や維持をますます困難にした。しかしドイツ軍は、平静を装って士気を高めるためには、フランス人の日常生活を維持する必要があると考えて通常通り競馬を開催することを許可した。結果としてこの時期の馬券の売上は大幅に増え、多くの競走の賞金が増額された。 凱旋門賞の賞金は100万フランに据え置かれていたが、春のロンシャン競馬場で行われるサブロン賞は従前の63万フランから97万フランに賞金が増えた。このサブロン賞には、前年無敗の活躍をしたアーコットと、凱旋門賞2着のトルナードが登場することになっていた。サブロン賞当日の第1レースの発走寸前に、ロンシャン競馬場の上空にアメリカ軍の爆撃機が現れた。競馬場内に設置されていたドイツ軍の高射砲が応戦したが、爆撃機は14発の爆弾を投下し、7名の観客が死んだ。競馬施設も被害を受けたが、応急処置を施して1時間半後に競馬が再開された。この日行なわれたサブロン賞は、アーコットとトルナードの同着になった。しかしこの古馬2強はこのあと引退を決め、秋の凱旋門賞には出走しなかった。 爆撃の結果、ドイツ軍はロンシャン競馬場の開催許可を取消した。主催者は凱旋門賞を開催するにあたり、パリに近く、馬場が広く、直線に坂があるル・トランブレー(Tremblay Park)競馬場を選んだ。 1944年には6月にリュパン賞当日のメゾンラフィット競馬場が爆撃されて調教師が死んだ。フランスの重要な馬産地であるノルマンディーは激戦地となって、1936年と1937年に凱旋門賞を連覇したコリーダも犠牲となった。8月にはシャンティイ競馬場がたびたび爆撃を受けた。8月25日に連合軍が入城してパリが解放されると、ロンシャン競馬場の修復が始まった。9月の半ばには概ね修復がおわったが、ロンシャン競馬場はアメリカ軍に接収されて駐屯地となった。そのため結局この年も秋競馬はル・トランブレー競馬場で行なわれた。 1945年に凱旋門賞はロンシャン競馬場に戻ったが、戦時中の影響は様々な形で競馬に悪影響を及ぼした。石炭不足によって散水ができなくなって馬場が硬くなったり、政府がドイツ占領時代に発行されていたすべての新聞を発禁処分とした結果、すべての競馬新聞が姿を消したのがその一例である。
※この「ロンシャン競馬場の空爆と競馬の移転」の解説は、「凱旋門賞」の解説の一部です。
「ロンシャン競馬場の空爆と競馬の移転」を含む「凱旋門賞」の記事については、「凱旋門賞」の概要を参照ください。
- ロンシャン競馬場の空爆と競馬の移転のページへのリンク