稲葉家館山藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 10:32 UTC 版)
旧館山藩領には、1620年(元和6年)に東条藩(1万石)、1622年(元和8年)に安房勝山藩(3万石)、1638年(寛永15年)に北条藩(1万石)と安房三枝藩(1万石)が成立している。最大の安房勝山藩も藩主の相次ぐ早世によって1629年(寛永6年)に除封されているが、1668年(寛文8年)より酒井家を藩主として再び立藩され、1万2000石の藩として、江戸時代初期に成立した藩では唯一幕末まで存続する。1781年(天明元年)9月、徳川家治のもとで小姓組番頭・御側申次と出世を重ねて田沼意次と共に権勢を振るった稲葉正明(旗本)は安房・上総国内で3000石の加増を受け、旧領の7000石と合わせて1万石の諸侯に列し館山藩が立藩された。1789年(寛政元年)7月、稲葉正明は隠居後、子の稲葉正武が後を継いだ。1791年(寛政3年)、城山の南麓に館山陣屋が建設されている。その後、長男の稲葉正巳が後を継ぎ、幕末期の動乱の中で徳川慶喜の信任を得て若年寄、老中格、海軍総裁、陸軍奉行、大番頭、講武所奉行などを歴任し、幕府海軍の創設や外交問題などに大きな功を挙げた。 1868年(明治元年)の戊辰戦争では、稲葉正巳は幕府の役職を全て辞して隠退し、家督を稲葉正善に譲った上で新政府に恭順しようとしたが、江戸城開城の当日、榎本武揚率いる旧幕府海軍(榎本艦隊)が新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。当時の館山湾は日本有数の大艦隊が碇泊する港であったため、館山の地にて兵力を整え、軍艦8隻で函館に向かう準備を整える(後の箱館戦争)。この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2000余名が乗船していた。陸からは上総請西藩などの旧幕府方がそれぞれ侵攻してくるなど、館山藩は苦難を極めたがこれを乗り切り、新政府に恭順した。
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