稲葉家時代とは? わかりやすく解説

稲葉家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 19:31 UTC 版)

館山藩」の記事における「稲葉家時代」の解説

天明元年1781年9月旗本稲葉正明安房・上総国内3000石の加増受けた。正明は山城淀藩分家出身で、徳川家治のもとで小姓組番頭御側申次出世重ねて田沼意次と共に権勢振るった人物である。正明は旧領7000石と合わせて1万石の諸侯列し館山藩立藩された。 天明5年1785年1月、正明はさらに安房・上総国内3000石を加増されて都合1万3000石となる。しかし、翌年家治没して意次が失脚すると、正明もその余波受けて3000石を没収され出仕停止処分となった寛政元年1789年7月、正明は隠居して子の稲葉正武が後を継いだ。正武の代の寛政3年1791年)、城山の南麓に館山陣屋建設されている。正武は文化9年1812年3月隠居して家督を子の稲葉正盛譲ったが、正盛は文政2年1819年12月大坂加番中に29歳死去し翌年長男稲葉正巳が後を継いだ。 正巳は有能な藩主であり、幕末期動乱の中で徳川慶喜信任得て若年寄老中格海軍総裁陸軍奉行大番頭講武所奉行などを歴任し幕府海軍創設外交問題などに大きな功を挙げた明治元年1868年)の戊辰戦争では、正巳は幕府役職全て辞して隠退し家督稲葉正善譲った上で新政府恭順ようとしたが、榎本武揚率い旧幕府海軍館山湾から、上総請西藩などの旧幕府方が陸からそれぞれ侵攻してくるなど、館山藩苦難極めた。しかし正巳はこれを乗り切り新政府恭順した。 正善翌年版籍奉還藩知事となった明治4年1871年)の廃藩置県館山藩廃され館山県となり、正善県知事となった同年11月14日館山県木更津県編入され廃された。明治17年1884年)の華族令公布に伴い正善子爵叙せられた。

※この「稲葉家時代」の解説は、「館山藩」の解説の一部です。
「稲葉家時代」を含む「館山藩」の記事については、「館山藩」の概要を参照ください。

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