稲葉家時代
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天明元年(1781年)9月、旗本稲葉正明は安房・上総国内で3000石の加増を受けた。正明は山城淀藩の分家の出身で、徳川家治のもとで小姓組番頭・御側申次と出世を重ねて田沼意次と共に権勢を振るった人物である。正明は旧領の7000石と合わせて1万石の諸侯に列し、館山藩が立藩された。 天明5年(1785年)1月、正明はさらに安房・上総国内で3000石を加増されて都合1万3000石となる。しかし、翌年に家治が没して意次が失脚すると、正明もその余波を受けて3000石を没収され、出仕停止処分となった。寛政元年(1789年)7月、正明は隠居して子の稲葉正武が後を継いだ。正武の代の寛政3年(1791年)、城山の南麓に館山陣屋が建設されている。正武は文化9年(1812年)3月に隠居して家督を子の稲葉正盛に譲ったが、正盛は文政2年(1819年)12月、大坂加番中に29歳で死去し、翌年に長男の稲葉正巳が後を継いだ。 正巳は有能な藩主であり、幕末期の動乱の中で徳川慶喜の信任を得て若年寄、老中格、海軍総裁、陸軍奉行、大番頭、講武所奉行などを歴任し、幕府海軍の創設や外交問題などに大きな功を挙げた。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、正巳は幕府の役職を全て辞して隠退し、家督を稲葉正善に譲った上で新政府に恭順しようとしたが、榎本武揚率いる旧幕府海軍が館山湾から、上総請西藩などの旧幕府方が陸からそれぞれ侵攻してくるなど、館山藩は苦難を極めた。しかし正巳はこれを乗り切り、新政府に恭順した。 正善は翌年の版籍奉還で藩知事となった。明治4年(1871年)の廃藩置県で館山藩は廃されて館山県となり、正善が県知事となった。同年11月14日、館山県は木更津県に編入されて廃された。明治17年(1884年)の華族令公布に伴い、正善は子爵に叙せられた。
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