移籍をめぐるトラブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 05:08 UTC 版)
「ヤングマスター 師弟出馬」の記事における「移籍をめぐるトラブル」の解説
「ジャッキー・チェン#ジャッキー・ジャック事件」も参照 自身のプロダクションによる初監督作品『クレージーモンキー 笑拳』の成功後、ジャッキーはロー・ウェイと新たに契約を結び、ローとともに、本作撮影前に製作に着手していた作品のプロジェクトを再開させる。一方、当時のマネージャーのウィリー・チェン(中国語版)は先のローとの契約に、「他で好条件があった場合は、契約を破棄できる」という条件が含まれていると思っていたため、ジャッキーの移籍先を探すため奔走していた。ゴールデン・ハーベストから移籍金として100万香港ドルが提示されるが、「ジャッキーの市場価格はまだまだ上がる」と踏んでいたウィリーは、それに飛びつかずじっと次のラウンドを待っていた。 ゴールデン・ハーベストの提示額が270万香港ドルまで上がっていた頃、その話を聞いたローは激怒。ジャッキーとウィリーに、先の契約書を突き付ける。そこに書かれていたのは、「ジャッキーが他社へ移籍するためには違約金1,000万香港ドルの支払いが必要」という内容だった。契約時の話では10万香港ドルのはずだったが、ジャッキーが空白の契約書にサインしてしまったために、金額を改竄させられてしまったのだ。ウィリーはロー・プロを解雇され、ジャッキーは自らの軽率な行動を悔やんだ。 落ち込む2人のもとに救世主が現れた。ジャッキーに恩のある契約係の支配人が「もし裁判になった場合、ローの契約書改竄を証言する」と告げたのだった。ふたたび希望の光を見出した2人は、ジャッキーの「競売」を再開する。1週間後、ゴールデン・ハーベストは420万香港ドル、ショウ・ブラザーズは500万香港ドルをそれぞれ提示した。ウィリーは、経営者の人格、そして今後の世界戦略を考えて、ゴールデン・ハーベストへの移籍をジャッキーに勧め、移籍の話がまとまった。 そしてジャッキーはロー・プロとの撮影を中断し、ゴールデン・ハーベストでの第1作目である本作の製作に取り掛かった。しかし、撮影が進むにつれ撮影現場で不審な出来事が起こり始めていた。放火や、ゴールデン・ハーベストの重役の車に血だらけの犬の頭が置かれる、といったいやがらせが続いた。そんなある日、ジャッキーのもとにギャングたちがやってきて、ジャッキーはローのもとに連れて行かれ、あらためて契約を迫られる。ローは「出演料はジャッキーの言い値で構わない」と言った。ジャッキーはその返答を保留する。 その頃本作の撮影は3分の2ほど進んでいたが、他の障害が出てくる前に完成させたかったジャッキーは、自身と撮影チームをボロボロになるまで酷使していた。そんなジャッキーを見て心配するウィリーにジャッキーは、ローとギャングのことについて打ち明けた。ウィリーが問題解決のため、レイモンド・チョウに相談している頃、再びジャッキーのもとにたびたびギャングが現れるようになっていた。そこでジャッキーはローの作品に出演することを約束してしまう。数日間、本作のポストプロダクションの仕事と、ロー・プロの製作現場を往復する。しかし、ロー・プロの現場にローの姿はなく、撮影機材もひどいもので、とても映画をつくれるような環境ではなかった(結局この中断作品『ジャッキー・チェンの醒拳』は1983年まで公開されなかった)。 本作の完成後、ジャッキーとウィリーは台湾に少し滞在し、そこから南米へ渡った。その頃香港では本作が公開され大ヒットしていた。一方でジャッキーは『バトルクリーク・ブロー』の撮影のために単身アメリカへ向かうことになった。 移籍トラブルおよび渡米という一連のジャッキーの動きはスキャンダルとして報じられ、「ジャッキー・ジャック(=ジャッキーの盗難)事件」と呼ばれるに至る。 事態は問題解決に動き出す。ローとの間の1,000万香港ドルの契約についてはレイモンド・チョウが引き受け、ギャングとの問題に関してはジミー・ウォングが仲裁に入ることになった。ジミー・ウォングへの返礼は、彼が制作する映画への協力だった。これには、先輩のサモ・ハン・キンポーも少なからず関わっている。 裁判でロー・ウェイ側に『ドラゴンロード』までの収益の一部を支払う判決が下され、その旨がエンドクレジットで表記されている。
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