科学的論点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:19 UTC 版)
この彗星の出現は、当時の学者らにとって、彗星の正体に関する研究と議論を深める好機であった。17世紀中頃の天文学はまだ、プトレマイオスの体系、コペルニクスの体系、ティコの体系がせめぎ合う時代であった。その中で、逆行のような惑星と共通する特徴を持ちつつ、短期間しか現れず常軌を逸した運動をする彗星をどう理論付けるかは、それぞれの宇宙観において大きな問題だった。中世盛んであったスコラ学では、彗星は地球大気で起こる現象と考えられ、ティコは彗星が天体であることを主張したが、ガリレオ・ガリレイでさえ彗星を大気中の現象と結論付けていた。 イギリスでは、クリストファー・レンとジョン・ウォリスが、この彗星を観測した結果を基に、逸早く彗星の運動についての理論を構築したが、彼らの理論は、彗星の運動を直線的と仮定したものであった。 北米では最も初期に天文学の書籍を出版したダンフォースは、彗星に関して当時最新の知見に基づく説明を行っており、彗星は天体であって月よりも遠くにあり、尾は必ず太陽の反対側に伸びていて太陽光の反射によって光り、その運動には一定の規則性がある、と述べた。 ダンフォースはまた、この彗星の軌道が楕円形であるとも述べている。一方で、やはりこの彗星を観測したジョヴァンニ・ボレリは、計算を繰り返し、この彗星の軌道が放物線のような曲線であるとの結論に至り、現在はボレリの理論の方が実際の彗星の軌道に近かったことがわかっている。また、同じように円錐曲線の軌道も想定していたオーズーは、自身の観測を基に彗星の位置を予報する実用的な天体暦を初めて作成し、以後この手法は広く用いられるようになった。 プティはこの彗星を、1618年に出現した大彗星と同じ彗星だと考え、周期が約46年で次は1710年に回帰すると予想した。しかし、この考えは間違いであり、1710年に彗星は出現しなかった。彗星の回帰を正しく予想できたのは、その40年後、エドモンド・ハレーが軌道を計算したハレー彗星が初めてであった。
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