私的称号としての皇帝:1918年 - 1961年とは? わかりやすく解説

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私的称号としての皇帝:1918年 - 1961年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 18:40 UTC 版)

オーストリア皇帝」の記事における「私的称号としての皇帝:1918年 - 1961年」の解説

第一次世界大戦敗れた後の1918年11月11日カール1世国事行為遂行断念するという文書署名しシェーンブルン宮殿退去した。新生共和国はこれを退位みなしたが、しかし当のカール1世には退位したつもりなど全くなく、ハプスブルク=ロートリンゲン家依然としてオーストリア皇帝称号保持できる考えていた。カール1世極めて敬虔なカトリック信徒であったため、自らを廃位できるのは神のみであり人民にはその権利がないと王権神授説観点から考えていたのであるカール1世1922年4月1日崩御すると、皇后ツィタ長男オットーに「あなたは今、皇帝にして国王Kaiser und Könige)となったのです」と言ったオットーは母ツィタにとって1922年4月1日午後から新たなオーストリア皇帝」だったし、同日夜からケルゼンブロック伯爵夫人によって召使いたちに「陛下」と呼ばれるようになった亡命宮廷人々のみならず少なくともカトリック奉じる正統主義的な王党派の頭の中では、オットー即位正当なものとされた。 ウィーン皇帝ダビデ王冠戴き危害加えてならない聖別され帝王であり、彼(=カール1世)を追放することは宗教的信条に逆らう宗教的不法行為であった。(中略皇帝の冠は、表面しか見えない人たちにとっては見えなくなってしまった。ヨーゼフ・ロートオットー・フォン・ハプスブルクを「見えない王冠戴いた皇帝」と見ていた。今は多く人間が、混乱霧の中隠れているものが見えるようになるまでには長い時間が必要であろう。 — オーストリア哲学者トーマス・シャイモヴィッツ 肖像画名前即位崩御または退位先代との関係 カール1世 1916年11月21日 1922年4月1日 フランツ・ヨーゼフ2世(フランツ・ヨーゼフ・オットー・フォン・ハプスブルク) 1922年4月1日 1961年5月31日 カール1世長男 1949年二つ家門貴族位を授与するなど、オットーはしばらく君主然とした振る舞い続けたが、1961年に「退位」し、次いで王朝との絶縁オーストリア共和国宣誓した。これ以降私的称号としてもオーストリア皇帝名乗る者はいないが、それでも今なおハプスブルク=ロートリンゲン家当主オーストリア皇帝であるとみなす者は残存するそうした立場拠るならば、2018年現在オットー長男カールが「オーストリア皇帝カール2世ということになる。

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