私的称号としての皇帝:1918年 - 1961年
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「オーストリア皇帝」の記事における「私的称号としての皇帝:1918年 - 1961年」の解説
第一次世界大戦に敗れた後の1918年11月11日、カール1世は国事行為の遂行を断念するという文書に署名し、シェーンブルン宮殿を退去した。新生の共和国はこれを退位とみなしたが、しかし当のカール1世には退位したつもりなど全くなく、ハプスブルク=ロートリンゲン家は依然としてオーストリア皇帝の称号を保持できると考えていた。カール1世は極めて敬虔なカトリック信徒であったため、自らを廃位できるのは神のみであり人民にはその権利がないと王権神授説の観点から考えていたのである。 カール1世が1922年4月1日に崩御すると、皇后ツィタは長男オットーに「あなたは今、皇帝にして国王(Kaiser und Könige)となったのです」と言った。オットーは母ツィタにとって1922年4月1日午後から新たな「オーストリア皇帝」だったし、同日夜からケルゼンブロック伯爵夫人によって召使いたちに「陛下」と呼ばれるようになった。亡命宮廷の人々のみならず、少なくともカトリックを奉じる正統主義的な王党派の頭の中では、オットーの即位は正当なものとされた。 ウィーンの皇帝はダビデの王冠を戴き、危害を加えてはならない聖別された帝王であり、彼(=カール1世)を追放することは宗教的信条に逆らう宗教的不法行為であった。(中略)皇帝の冠は、表面しか見えない人たちにとっては見えなくなってしまった。ヨーゼフ・ロートはオットー・フォン・ハプスブルクを「見えない王冠を戴いた皇帝」と見ていた。今は多くの人間が、混乱の霧の中に隠れているものが見えるようになるまでには長い時間が必要であろう。 — オーストリアの哲学者トーマス・シャイモヴィッツ 肖像画名前即位崩御または退位先代との関係 カール1世 1916年11月21日 1922年4月1日 フランツ・ヨーゼフ2世(フランツ・ヨーゼフ・オットー・フォン・ハプスブルク) 1922年4月1日 1961年5月31日 カール1世の長男 1949年に二つの家門に貴族位を授与するなど、オットーはしばらく君主然とした振る舞いを続けたが、1961年に「退位」し、次いで王朝との絶縁をオーストリア共和国に宣誓した。これ以降、私的称号としてもオーストリア皇帝を名乗る者はいないが、それでも今なおハプスブルク=ロートリンゲン家の当主をオーストリア皇帝であるとみなす者は残存する。そうした立場に拠るならば、2018年現在はオットーの長男カールが「オーストリア皇帝カール2世」ということになる。
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