福満虚空蔵尊伝説
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毒もみ漁伝説 江戸時代初期慶長のころ、当時の会津藩主、蒲生秀行は、柳津の只見川に遊びにきていたが、魚を大量にとってやろうと思い、上流の出倉(いずくら)付近から胡桃の皮、山椒、渋柿などを200人に背負わせて大量に流し込んだ。多くの魚はプカプカ浮き上がり、それを秀行はよろこんで見ていたらしい。付近の住民は「こんな殺生なことをして虚空蔵さまの撥(ばち)でもあたらないといいが」と言っていたという。言わずもがな翌年1611年夏に会津地震が発生、M6.9ともいわれ、円蔵寺の舞台は只見川に崩れ落ちたほか、若松城の天守も大きく傾き、石垣も崩壊したという。秀行は心労がつづいたのか翌年謎の早世をとげる。しかし、徳一が虚空蔵菩薩を刻んだ時の木片の化身といわれた魚渕(うおぶち)のウグイは一尾も死ななかったといい、今も魚渕に大量の銀鱗を見ることができるのである。 おぼだき観音伝説 江戸時代の元禄のころ、会津は高田の袖山(現、会津美里町旭・袖山)というところに五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり特に福満虚空蔵尊を厚く信仰していた。ある時、五穀豊穣と子孫繁栄を発願し、福満虚空蔵尊に丑の刻参りをしていたという。いよいよ満願の夜、羽織に手甲、新しい草鞋と身支度も万全、袖山から高田を経て八反道、旧柳津街道(田澤通り)を進んだ。最後の早坂峠にさしかかった時、漆黒の闇にもかかわらず、辺りがぼーっと明るくなったかと思うと、赤子をだいたひとりの女にあう。散らし髪に白いほほ、久左衛門はおもわず息をのんだ。女が言うには「旅の方ちょうどよい、私はこのおぼ(乳呑み児)の世話で、長い間髪をゆう暇もありませんでした。しばしこの子を預かってはくださらんか?」「髪をゆう間、この子を泣かせずにあやしてくれたら褒美を授けましょう。さもなくば・・・」とのこと。平地2里、山道3里の道中でましてやこの刻、魔性の女であることは確信していた。久左衛門は古老から聞かされたことがハッと思い当たって、喉を噛まれないよう赤子に目を会わせず外向きに受け取ると、自分の羽織の紐を赤子の顔の前に垂らしてあやしていた。この羽織の紐は左右の長さが違うのであるが、赤子は紐の先端を合わせようと夢中でキャッキャいいながら引っ張り続けていたという。やがて東の空が白み始めて一番鶏が鳴き始める頃、やっと女の髪ゆいが終わり、「よくぞ、この子を泣かせずあやしてくれました。大変お世話になりました」という間もなく女は消え去り、久左衛門の手には赤子の代わりに金の重ね餅が握らせられていたという。これを持ち帰って、代々大事に取り扱ったところ、大分限者(長者)になった。久左衛門はのちに早坂峠(現-柳津森林公園)におぼ抱き観音をまつったのである。
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