毒もみ漁伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 00:45 UTC 版)
江戸時代初期慶長のころ、当時の会津藩主、蒲生秀行は、柳津の只見川に遊びにきていたが、魚を大量にとってやろうと思い、上流の出倉(いずくら)付近から胡桃の皮、山椒、渋柿などを200人に背負わせて大量に流し込んだ。多くの魚はプカプカ浮き上がり、それを秀行はよろこんで見ていたらしい。付近の住民は「こんな殺生なことをして虚空蔵さまの撥(ばち)でもあたらないといいが」と言っていたという。言わずもがな翌年1611年夏に会津地震が発生、M6.9ともいわれ、円蔵寺の舞台は只見川に崩れ落ちたほか、若松城の天守も大きく傾き、石垣も崩壊したという。秀行は心労がつづいたのか翌年謎の早世をとげる。しかし、徳一が虚空蔵菩薩を刻んだ時の木片の化身といわれた魚渕(うおぶち)のウグイは一尾も死ななかったといい、今も魚渕に大量の銀鱗を見ることができるのである。
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