神学的な信条と科学の振興
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「ムウタディド」の記事における「神学的な信条と科学の振興」の解説
イスラームの教義に関してムウタディドはその治世の開始当初からスンニ派の伝承主義(英語版)に基づく神学を固く支持し、神学的な研究を禁じるとともにハンバル学派の法的な見解において違法と見なされた国家に帰属する資産についてこれを管轄していた財務部門を廃止した。その一方でアリー家(英語版)を支持する勢力との良好な関係を維持しようと努め、ウマイヤ朝の創設者であり、アリー・ブン・アビー・ターリブの主要な敵対者であったムアーウィヤに対する公的な非難を命じることを真剣に検討するまでになった。しかし、ムウタディドはそのような行為がもたらす可能性がある予期せぬ結果を恐れた助言者によって最後の段階になって実行を思い留まった。さらにアッバース朝から分離したタバリスターンのザイド派のイマームと良好な関係を維持したが、ムウタディドの親アリー派の姿勢は901年のイエメンにおける第二のザイド派政権樹立の阻止には役立たなかった。 また、ムタディドは9世紀前半のカリフであるマアムーン(在位:813年 - 833年)、ムウタスィム(在位:833年 - 842年)、およびワースィク(英語版)(在位:842年 - 847年)の下で繁栄していた学問と科学の伝統を積極的に奨励した。かつての系統的な各種の努力に対する宮廷の支援は、正統的なスンニ派への回帰と科学的な探求への嫌悪感を示したムタワッキルの下で減少していた。さらにムタワッキルの後継者たちには知的探求に関与するだけの余裕がなかった。ケネディによれば、ムウタディドは自ら「自然科学に熱心な興味を抱いて」いた。そしてギリシア語を話すことができたムウタディドは、同時代のギリシア語文献の翻訳者であり数学者の一人であったサービト・ブン・クッラ、さらには文献学者のイブン・ドゥライド(英語版)とアブー・イスハーク・アル=ザッジャージュ(英語版)の経歴を引き上げ、ザッジャージュについてはカリフの子供たちの家庭教師となった。当時の著名な知識人の中にはムウタディド自身の家庭教師であった哲学者キンディーの弟子であるアフマド・ブン・アッ=タイイブ・アッ=サラフシー(英語版)がいた。サラフシーはカリフと親しい仲になり、バグダードの市場を監督する実入りの良い役職に任命されたものの、後にカリフの怒りを買い、896年に処刑された。ある説明によれば、アル=カースィム・ブン・ウバイドゥッラー(ムウタディドの宮廷の逸話において頻繁に悪役として登場する)が処刑すべき反逆者のリストにサラフシーの名前を付け加えた。カリフはリストに署名し、自分の古い師が処刑されてしまった後に初めて己の過ちを知った。
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