祖先と初期の人生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 09:58 UTC 版)
「イリア・チャヴチャヴァゼ」の記事における「祖先と初期の人生」の解説
イリア・チャヴチャヴァゼは、当時のロシア帝国の一部であったグルジアカヘティ州のアラザニ渓谷にあるクヴァレリ(Kvareli)の村、クヴァレリ(Qvareli)で生まれた。イリアはグルジアのプリンスの称号であるタヴァディ(tavadi)だった。チャヴチャヴァゼ家はグルジアのプシャヴ=ヘヴスレティ(英語版)地方の貴族であったと考えられており、1726年に国家への勲功が認められ、国王コンスタンティネ2世(英語版)から爵位を授かったという。その結果、一族はカヘティのアラザニ渓谷に移り住んだ。 イリアは、グリゴル・チャヴチャヴァゼとマリアム・ベブリシヴィリの三男だった。グリゴルは、彼の父親や著名な先祖たちと同様、軍出身だった。彼は地元の民兵と共に、度重なるダゲスタンの侵略から村を守った。クヴァレリにあるイリア・チャヴチャヴァゼ博物館の建物には、庭にある2階建ての城に中世の城の様式を取り入れ、侵略時に家を守るような設計が見られる。 チャヴチャヴァゼは村の執事から初等教育を受けた後、トビリシに移り、1848年に名門貴族アカデミーに入学したが、幼い頃からイリアは古典文学、グルジア史、詩の高度な教育を受けた両親から影響を受けていた。両親から、イリアは古典歴史小説でグルジアの英雄の感動的な物語を学んだ。イリアは自伝の中で、グルジアの小説や詩の大半を暗記し、子供たちにも習わせた母親のマリアム・チャヴチャヴァゼに言及している。イリアはまた、彼に芸術的なインスピレーションを与えた執事の話の影響を描写し、後に彼の小説執筆に応用した。 イリアの母マリアムは1848年5月4日、イリアが10歳のときに亡くなり、父親は姉ないし妹のマクリネに子供の育てを手伝ってほしいと頼んだ。マクリネおばは、イリアの父グリゴルが亡くなった1852年以降、家族の唯一の世話人であったため、イリアの生活に大きな影響を与えた。 母マリアムの死後の1848年に、父親はイリアをトビリシに遣り中等教育を受けさせた。イリアは1851年にトビリシの第1アカデミーに入学する前に3年間私立学校に通っていたが、すぐに父親が亡くなり、マクリネおばが一家の面倒を見ていた。彼の中学時代は、父親の死で非常にストレスが多かった。しかし、ダゲスタンによるカヘティの襲撃でイリアの弟コンスタンティネが殺害され、チャヴチャヴァゼ家は壊滅的な打撃を受けた。イリアは、彼の最初の短詩の1つである『Sorrow of a Poor Man(貧しい人の悲しみ)』で、苦悩と悲しみを表現した。個人的な問題に加え、グルジアの政情は、国家と文化に破壊的な役割を果たしたロシア帝国の厳しい権威のもとで悪化していった。
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