監督・佐々木功の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:53 UTC 版)
監督の佐々木功が、1994年6月頃から発熱・食欲不振・体重激減などの体調不良を訴える。浅井を初め、周囲から病院に診て貰うように何度も説得されていたが、佐々木監督は一切それを頑なに聞き入れなかった。だが、北海道の合宿中に佐々木は背中と腰の激痛に耐え切れず、同年8月に東京都狛江市の東京慈恵会医科大学附属第三病院へ緊急入院。検査の結果、脛部の皮膚ガンがほぼ全身に転移している事が判明、さらに数か月の余命と診断された。それをきっかけに1994年9月、二人は入籍し結婚式を挙げる。佐々木はその後抗がん剤の効果もあり、一時は好転して退院。同年12月には浅井と一緒に、新婚旅行を兼ねてホノルルマラソンに行ける程までに回復したが、完治にまでは至らなかった。 佐々木の病状は翌1995年1月に悪化したため、同年2月2日に再入院。看護の最中に浅井は同年3月5日、ホノルルマラソンの姉妹レースである神奈川県の三浦国際市民マラソン・ハーフの部に出走した。しかしそれから僅か8日後、「もう一度監督に復帰を」と必死に願い続けた浅井の懸命な看病も空しく、佐々木は1995年3月13日に悪性黒色腫により52歳で死去した。 佐々木監督の死から復帰のレースは、前年に続き1995年12月のホノルルマラソンだったが、途中で立ち止まる場面も有り、2時間56分台の9位留まりだった。翌1996年3月、2年ぶりに名古屋国際女子マラソン(アトランタオリンピック選考レース)に出場、当時36歳ながら2時間33分台のタイムで14位に入る。同年3月限りでNEC-HC陸上部が廃部のため、同社所属選手としては最後のレースとなった。 2020年現在も浅井は東京マラソン・長野マラソン・ホノルルマラソンに出走するなど、日本の現役女子マラソンランナーとして活動中である。
※この「監督・佐々木功の死」の解説は、「浅井えり子」の解説の一部です。
「監督・佐々木功の死」を含む「浅井えり子」の記事については、「浅井えり子」の概要を参照ください。
- 監督・佐々木功の死のページへのリンク