監督三人体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 05:13 UTC 版)
「人生劇場 (1983年の映画)」の記事における「監督三人体制」の解説
岡田社長から「東映には盆も正月もない。封切りに間に合わせろ」と催促され、『青春の門』が監督を二人で分担して上手くいったことから、監督を分担しオムニバス形式でやれないかという案が出た。鈴木則文や関本郁夫もその話に色気を見せ、七人の監督で演出する案もあったが、深作と仲のいい佐藤純彌がちょうど京都で『空海』を撮影していたため、岡田社長から「お前、手伝ってやれ」と頼まれ、岡田にはお世話になっており、深作の窮状を救うためこれを引き受けた。急ぎ野上の脚本改定を始め、佐藤、深作、プロデューサーで討論を繰り返したが、野上の言うように「青春篇」だけでは、どうしても現代の映画にならず、深作の意図する大正ロマンにするには、撮影場所の問題で不可能で、元々、東映は学生運動をメインとする「青春篇」では面白くないと判断していたため、結局、東映が尾崎の遺族と話し合い、「愛慾篇」「残侠篇」の使用を許可して貰うことになった。許可が取れたのは11月末で、二人監督でも撮影が間に合うかどうかという事態に追い込まれ、深作とやはり仲がいい中島貞夫が「『残侠篇』をやってもいい」と言うため、中島が三人目として加わることになり、結果、「青春篇」に「愛慾篇」「残侠篇」を加えたオムニバス形式になり、1972年の松竹・加藤泰監督版に近いものとなった。当時は三人ともフリーとはいえ、東映出身の最強メンバーによる合作となって、12月に入り、ようやく製作が始動した。封切り予定日も迫り、松竹から借りた松坂慶子と永島敏行は三週間以上も撮影開始を待って遊んでいる状態であった。
※この「監督三人体制」の解説は、「人生劇場 (1983年の映画)」の解説の一部です。
「監督三人体制」を含む「人生劇場 (1983年の映画)」の記事については、「人生劇場 (1983年の映画)」の概要を参照ください。
- 監督三人体制のページへのリンク