町村制以前(-1889)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:19 UTC 版)
「阿児町立神」の記事における「町村制以前(-1889)」の解説
現代は無人島である天童島や土井ヶ原島では遺跡が見つかっており、縄文時代の遺物包含層が天童島・西山半島・中山半島にある。『神鳳鈔』に「立神御厨」とあり、鎌倉時代は神領(伊勢神宮領)であった。戦国時代の九鬼嘉隆による志摩国の平定後は、立神村の南東部を川面氏(波切を拠点)、北西部を青山豊前(和具を拠点)の支配下に置かれた。川面氏も青山氏も九鬼氏の家臣であり、九鬼氏が転封で志摩国を離れるまで川面・青山の支配体制が続いたと見られる。 江戸時代には、志摩国英虞郡磯部組に属し、立神村として鳥羽藩の配下にあった。『三蔵寺世代相伝系譜』に「慶長のころ、立神村の人布施田郷へ住居するより人家漸次に稠密となり」とあり、立神村から布施田村(現・志摩町布施田)への移住があったようである。天和元年(1681年)の村高は745石であったが、「天保郷帳」では782石に増加した。これは前方浦や阿鎌に堤防を築いて新田開発を行った結果であるが、新田の堤防は宝永地震(1704年)、安政東海地震(1854年)で大半を破壊された。天和元年の夫米は36石で、ほかに浦役として銀43匁、鳥打網の役銭1貫200文、竹の年貢2両、銀10匁を納めた。年貢以外にも藩主へ柿渋・ダイダイなどを献上した。大工を兼業する人が多く、村出身の長谷川忠左衛門は大和国の長谷寺観音堂修築の際に棟梁を務めた。漁業では、船50隻(ちょろ船31隻、さっぱ船19隻)を所有し、隣接する神明浦村(現・阿児町神明)と漁場争いをした記録がある。地先の英虞湾で漁をするだけなく、和具村や船越村に米を納めてコノシロ・ナマコを、ナマコを納めて波切村でコノシロ・ナマコ・藻魚を取っていた。
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