生徒らと五月の朝の窓あけて
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評 言 |
素逝は、昭和9年9月から母校である津中学校へ、国語の教師として赴任。ボート部を指導し、当時のクルーは全国優勝を果たした。 スポーツマンで偉丈夫な素逝だったが、昭和12年、日華事変に応召して中国大陸を転戦、体をこわし昭和21年、40歳の若さで亡くなる。虚子はその死を悼み「まっすぐに炉に飛び込みし如くなり」とうたった。 明快で、さわやかな掲句、朝早く登校した生徒らと一緒に窓を開けるのである。明るい話し声が聞こえてきそうだ。校庭の木々を揺らしみどりの風が吹いてくる。五月という季語が動かない。五月以外の何月であっても、このみずみずしさ、さわやかさは伝わらない。素逝はどんな先生だったのだろうとふっと思った。 私は15歳で陸の孤島とよばれた旧南島町の漁村を出て、一人自炊をして伊勢の宇治山田高等学校に通った。そこでS先生との出会いがあった。50年経た今も、先生に教えられた、物の見方考え方、数々の言葉が私を支えてくれている。教科は国語、新聞部の顧問だった。 先生は「よく遊びよく学べ」をモットーに、教室を飛び出して屋上や戸外での授業もよくされた。私たちは、休みには津の先生のお家にお邪魔した。大学生や、社会人の教え子も集まってきて交流が始まる。一部屋に20人も30人も入り、歌を歌った。戦争を平和を、世の中の矛盾を、恋愛を夜が明けるまで語り合った。沢山の詩歌も教えてもらった。心を自由にしてもらった。 先生は私たちの学校から津高へ転勤、素逝と同じボート部の顧問に。その頃、津高ボート部は100周年を迎え、その事業として素逝の句碑を建立する事になった。選ばれた句、この「五月の朝の窓」の句。生徒誰もが読めるようにと明朝体で刻まれた。今も校門のそばで登校する生徒を迎えている。 「人生が豊かになるぞ」と俳句に誘って下さったのもS先生だった。先生を慕う教え子たちで俳句会を立ち上げ、再び教えを受けた。高齢でS先生の指導を願えなくなった現在も俳句会は続いている。 |
評 者 |
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備 考 |
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