現在の八重洲地域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:29 UTC 版)
江戸時代、現在の八重洲地域付近の江戸城外濠には、呉服橋と鍛冶橋が架かっていた。呉服橋は呉服橋交差点(外堀通りと永代通りの交差点)、鍛冶橋は鍛冶橋交差点(外堀通りと鍛冶橋通りの交差点)に名を残す。橋の内側には、呉服橋門と鍛冶橋門(江戸城三十六見附参照)が設けられており、外濠の内側は江戸城外郭(いわゆる「丸の内」)であった。外濠の外側は「城辺(しろべ)河岸」と呼ばれる河岸(かし。河川舟運の物流拠点であるとともに市場にもなった場所)であり、商工業者の集住地であった。材木関係の職人が集住した(上・北・南)槇町、檜物町、桶町、(元・南)大工町、あるいは職業に基づく南鍛冶町や北紺屋町などの旧町名は、こうした歴史に由来する。 現在の八重洲一丁目の北縁を画するのは日本橋川である。日本橋川沿岸は河岸地が発達した場所で、現在の八重洲一丁目北端付近は西河岸と呼ばれた。後藤庄三郎屋敷(金座)などがある対岸とを結ぶ一石橋には「迷子しらせ石標」が設けられるなど、賑やかな地であった 外濠の呉服橋門は、門外に幕府呉服司後藤縫殿助の屋敷があったことに由来する(旧町名の呉服町も後藤縫殿助の屋敷があったことに由来する)。なお、江戸時代後期には北町奉行所が呉服橋門内に置かれており、東京駅の八重洲北口付近に解説板がある。 現在の八重洲通りの場所には、江戸時代初期に外濠と楓川(現在の首都高速都心環状線)を結ぶ運河「紅葉川」があった。紅葉川は江戸城建設資材を運搬するために開削された運河であるが、正保年間(1644年-1647年)に西半分にあたる外濠と中橋(東海道に架かっていた橋。現在の日本橋三丁目交差点付近)の間が埋め立てられて火除地とされ、中橋広小路と呼ばれた。 現在の八重洲二丁目南部にあった鍛冶橋門の名は、門外に南鍛冶町があったことに由来するという。鍛冶橋門外には狩野探幽が屋敷を拝領し、「鍛冶橋狩野家」を興した。桶町には幕末期に千葉定吉の剣術道場(桶町千葉道場)があった。 現在の八重洲二丁目南端には京橋川があり、江戸時代には一帯に大根河岸と呼ばれる青果市場が成立した。大根河岸は明治期に京橋大根河岸市場として認可され、築地市場(東京市中央卸売市場築地本場)が開設されて市場機能が集約される昭和初期まで青果市場として繁栄した。現代は中央区の道路愛称として「京橋大根河岸通り」の名がある。 1872年(明治5年)に郡区町村編制法が施行され、東京府のもとに15区が置かれた。この際、現在の八重洲通り以北が日本橋区、以南が京橋区となった(#地名の変遷参照)。 1904年(明治37年)、外濠沿いの道路に東京電気鉄道(通称「外濠線」、のちに市電・都電となる)の路面電車が開通した。新橋駅北口の土橋から、数寄屋橋・鍛治屋橋・呉服橋を経て、北は御茶ノ水に至る路線であった(うち新常盤橋以南を「土橋線」と言った。東京都電車参照)。
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