王立音楽アカデミー学長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 00:16 UTC 版)
「ウィリアム・スタンデール・ベネット」の記事における「王立音楽アカデミー学長として」の解説
1866年にアカデミー学長のチャールズ・ルーカス(Charles Lucas)が引退を表明した。次代の候補としてまず名前が挙がったのがコスタであったが、彼はアカデミー学長として想定可能な収入よりも多くを要求し、折り合いが付かなかった。次に上がったのがアカデミーのピアノ科教授であったオットー・ゴールドシュミットであったが、彼はそれを辞退した上でベネットを任用するよう重役に強く働きかけた。ゴールドシュミットの妻で、歌手のジェニー・リンド(Jenny Lind)が記すところによると、ベネットは「イングランドで唯一、学園を現在の腐敗した状態から蘇らせることができる人物」だったのだ。 ベネットのフィルハーモニック協会や大学でのそれまでの職は、彼にソリストとしてのキャリアを断念させるようなものであったが、音楽大学を率いるという職もまた常に作曲家として活動することを許さないものであった。他のアーサー・サリヴァンやヒューバート・パリー、ガブリエル・フォーレのような他の作曲家たちも後年同じような事態に悩まされていたが、ベネットの場合は単にアカデミーを運営するというのみならず、閉校の危機から救わねばならず、特にこの職による制限を強く受けた。学長職は伝統的にはさほど骨の折れるものでもなかった。契約上は彼は一週間に6時間だけ出勤して、作曲と編曲のクラスの優秀者を教えるだけでよかったのだ。しかし、ベネットは危機の時代に引き継いでしまっており、学長に求められる仕事はかなりの量になっていた。彼が1866年に受け継いだアカデミーは、財政、芸術の両面で惨めな状態だったのである。音楽ライターのヘンリー・コールレイ(Henry F. Chorley)はその年、英国のオーケストラ団員の17パーセントしかアカデミーで学んだものはいないというデータを出版していた。ロンドンで最高のオーケストラであったロイヤル・オペラ・ハウスには、アカデミー出身者は1人もいなかった。コールレイはさらにこう付け足している。「この25年間でアカデミーが世に送り出した偉大な器楽奏者は、私の記憶には全くいない。」 1864年と1865年、アカデミーは当時財務大臣であったウィリアム・グラッドストンの意向により政府から補助金を受け、一時的に破産と閉校の危機を免れていた。翌年、グラッドストンは大蔵省を去り、新しく大臣となったベンジャミン・ディズレーリは補助金の更新を却下した。これを受け、重役たちはアカデミーの閉鎖を決定した。ベネットは教員と学生の支援を受け、重役会議の議長を引き受けることになった。スタンフォードの言に拠れば、「政府が補助金を引き上げた後に議長になった彼は、それを再び勝ち取ることに成功し、学園の財政的信用を回復させた。また7年の間、国の音楽教育を推進させる手段について議論している様々な公共団体と複雑な交渉を行う、悩ましい心配事に耐えた。」のだった。 アカデミーやそれ以外でのベネットの弟子はアーサー・サリヴァン、ヒューバート・パリー、ジョセフ・パリー(Joseph Parry)、フランシス・ベイチュ、アリス・メアリ・スミス、W. S. ロックストロー(W. S. Rockstro)、トビアス・マティ(Tobias Matthay)などである。ベネットの指導下で、アカデミーは音楽的に保守的になった。サリヴァンの言によると、ベネットは「彼が言うところの新興楽派に、厳しい偏見を抱いていた。シューマンは一音たりとも演奏しようとしなかったし、ワーグナーも同様だった。彼は批評の蚊帳の外にいたのだ。チプリアーニ・ポッターは翻意し、盲目的なシューマン礼賛者になったが、スタンデール・ベネットに対しては何をしても無駄であった。」
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