王立造幣局勤務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:51 UTC 版)
「アイザック・ニュートン」の記事における「王立造幣局勤務」の解説
そんな時期が続いてはいたが、やがて教え子のモンタギューが世渡りのうまさを発揮して財務大臣になり、1696年4月にはニュートンに「王立造幣局監事」のポストを紹介し、1699年には「王立造幣局長官」に昇格することになった。モンタギューとしては働きづめであった師に少しばかり研究から離れて時間的、体力的に余裕のある地位と職に就かせたつもりだったが、就任早々に通貨偽造人の逮捕を皮切りに片っ端から汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した。「元大学教授」にしては鮮やかな手並みで、部下の捜査員に変装用の服を与えるなどし、偽金製造シンジケートの親分ウィリアム・シャローナー(英語版)を捕らえて裁判にかけ、大逆罪を適用して死刑にした。ニュートンが造幣局長官に在職している間は偽金造りが激減した。一方、銀貨の金貨に対する相対的価値の設定においてはニュートンは市場の銀の金に対する相対価値を見誤り、普通の銀よりも低く設定したため、銀貨が溶かされ金貨と交換されるという現象を引き起こしてしまい、これは図らずもイギリスが事実上の金本位制に移行する原因となった。 ニュートンは造幣局勤務時代には給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなり裕福になった。そして、個人で1720年までに南海会社株に1万ポンドの投資も行った。つまりイギリス史上もっとも悪名高い投機ブーム(南海泡沫事件)にニュートンも乗ろうとし、ブームの期間中株を持ち続け7000ポンドの利益を出したが、結局その後の株価暴落で2万ポンドの大損をしたとされる。
※この「王立造幣局勤務」の解説は、「アイザック・ニュートン」の解説の一部です。
「王立造幣局勤務」を含む「アイザック・ニュートン」の記事については、「アイザック・ニュートン」の概要を参照ください。
- 王立造幣局勤務のページへのリンク