猫田の時代とは? わかりやすく解説

猫田の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:11 UTC 版)

JTサンダーズ広島」の記事における「猫田の時代」の解説

再開後も広島専売強化はなかなか進まなかった。理由一つとして昭和30年代1950年代中期)に入り大学卒の地方局採用原則中止となったため、補強出来ない状況になってしまったためである。1958年昭和33年)、チーム名を『専売広島』に変更同年富山国体ではベスト8進出。またこの頃から力を付け始めた地元崇徳高校からの出身者増えチーム主軸となっていった。 1962年昭和37年)、崇徳高校から猫田勝敏入社。翌1963年昭和38年全日本入りした猫田に対して日本バレーボール協会から「中央の6人制チームへ移るべきだ」との勧告出され松平康隆1964年東京オリンピック全日本男子コーチ)からも「広島にいてはダメだ中央出てこい。」と叱咤受けたが、猫田地元チーム選んだこれを機にチームも6人制力を入れ1965年昭和40年)から一本化したこの頃社内サポート体制も整うこととなり、人気出始めバレーに、各企業イメージアップのため参加検討公社である専売広島思うような部費が得られず、選に洩れるのでは、という予想多かったが、関係者各位努力によって、1967年昭和42年)に始まったバレーボール選抜男女リーグの、最初参加6チーム一つ選ばれた。1969年昭和44年)には専用体育館竣工し練習拠点探し市内転々としていた状況終わりを告げる以降専売広島猫田同時期に全日本入りした西本哲雄チーム引っ張っていくことになる。この2人がいないとチーム成績落ち例え猫田骨折し欠場した第5回日本リーグ(1971/72)では入れ替え戦回っている。1972年9月ミュンヘン五輪で正セッターとして金メダル獲得した猫田は「五輪と同じぐらい、ワシらにはもうひとつ大事な仕事があるんやぞ。」と五輪決勝から約1か月後に行われた入れ替え戦挑んでいる。猫田西本頻繁に全日本呼ばれたオリンピックイヤー成績落ちミュンヘン五輪時の第5回日本リーグ加え1976年モントリオール五輪時の第9回日本リーグでも入れ替え戦回り双方とも残留果たしている。 1979年昭和54年)の宮崎国体優勝しチーム初の日本一に輝く。1981年昭和56年)の滋賀国体でも優勝。 時を前後して1980年昭和55年それまで選手兼任監督だった猫田現役引退監督業専念選手発掘チーム強化期待されていたが、1983年昭和58年8月胃がんにより死去後任監督には西本就任している。

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