猪名部氏について
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この春澄高子(後に改名して治子)は参議従三位式部大輔春澄善縄の長女で、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐の5朝に出仕した。特に宇多天皇からの信任が厚かったとされる。 善縄は猪名部造で、祖父の員弁財麿は伊勢国員弁郡少領、父の員弁豊雄は周防国大目で従八位下という官人では最も低い階位であった。善繩は幼くして聡明で勤勉して出世を果たし、天長5年(828年)に善繩と兄弟姉妹五人が春澄宿祢の姓を下賜された、氏人には善繩の女子の高子の他に、男子に具胆(従五位上鋳銭長官兼周防守、具瞻とも)、魚水(縫殿頭従五位下)らがいたとされる。善縄は仁明、文德、清和の3朝の御代に出仕し、藤原良房、伴善男、安野豊道らとともに六国史の第4である続日本後紀を著しており、『扶桑略記』に「在朝の通儒」と言わしめている。最終的に従三位の参議、式部大輔、讃岐守の兼任在任のまま貞観12年(870年)に死去している。高子が猪名部神社に奉納したのは、父の死去から3年後ということになる。 猪名部氏の出自には諸説ある。『日本書紀』応神31年8月条に、朝廷の船五百隻を造って武庫水門(むこのみなと)に停泊させていたところ、新羅の遣の船から失火、朝廷の船が全焼したため、新羅の王はその贖罪として、自らの優れた工匠を倭国に献上した。この工匠一族が猪名部の祖という、とある。しかし、『新選姓氏録』には、祭神伊香我色男命は猪名部氏の祖神で、天孫瓊々杵尊の兄、饒速日命の六世の孫と記されている。『先代旧事本紀』天神本紀には、饒速日命が天降りした際に5人が供奉したとある。これを「五部人(いつとものおのかみ)」と呼び、それらは 天津麻良(あまつまら) - 物部造等の祖 天津勇蘇(あまつゆそ) - 笠縫部等の祖 天津赤占(あまつあかうら) 富々侶(ほほろ) - 十市部首等の祖 天津赤星(あまつあかぼし) - 筑紫(つくし)弦田物部等の祖 とあり、このうち天津赤占あるいは天津赤星が猪名部氏の祖であるとしている。 社伝では、猪名部氏は、攝津国(兵庫県)の猪名川周辺から移住してきたとしている。北摂地方(現在の伊丹市、尼崎市、宝塚市、池田市付近)にはかつてヤマト王権時代に猪名県が置かれ、為那都比古を首長とする一族が支配していたとされる。ただしここから員弁財麿、豊雄に至る系譜は明らかになっていない。 和銅6年(713年)、第43代元明天皇の勅命により、猪名部の族名が転じて「員弁」とされた。 出自と直接関係づける史料はないが、この猪名部は木工建築の匠の技術を持っていたことが伺われ、天平17年(745年)8月に第45代聖武天皇の勅で始まった東大寺の建立に、猪名部氏族から猪名部百世が大工(=棟梁)として、飛騨の匠の益田縄手が少工(=副棟梁)として動員され完成している。さらには法隆寺、石山寺、興福寺の建立にも携わった記録が残り、古墳の出土品からは飛鳥寺建立にも携わっていることが知られている。
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