猟官運動とは? わかりやすく解説

猟官運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:32 UTC 版)

伊達重村」の記事における「猟官運動」の解説

宝暦10年1760年)、当時関白近衛内前養女である年子(惇姫。広幡長忠の娘)を正室迎える。なお、年子重村のはとこにあたる。 国目付派遣終わり重村による藩政本格的に始動することとなったが、重村は藩財政建て直し取りかかるどころか薩摩藩主・島津重豪への対抗意識から側近古田良智通じて猟官運動に狂奔し莫大な工作資金投じて藩の負債をさらに膨れ上がらせた。 もともと仙台藩主は、同格とみなす薩摩藩主に官位で差をつけられることを嫌い、薩摩藩主が昇進するたびに自身もこれと同格引き上げるよう求めていたが、明和元年1764年11月に重豪が従四位上左近衛権中将叙任されると、3歳年下の重豪に先を越されたことで自尊心を傷つけられ重村は、早急に官位昇進実現するため、松平武元老中筆頭)・田沼意次御側御用取次)・田沼意誠一橋徳川家家老)・高岳大奥老女)の4人へ多額金品贈りさらには将軍幕閣御機嫌取りのため、藩財政危機的状態に瀕しているにもかかわらず手伝普請積極的に買って出て、明和3年1766年)に費用捻出のため家禄30石以上の藩士年貢米一部上納命じ、これを諫めた登米伊達村良勘気を蒙り、50日間蟄居処される始末であった重村は翌明和4年1767年)に関東諸川普請手伝役を務めた功により、ようやく幕府からの推任を得て同年12月従四位上左近衛権中将への昇進果たしたが、普請要した費用は実に22万両余に達したため、赤字補填のため領民に対して献金募り、これに応じた農民商人300人余を士分取り立てて知行与えた

※この「猟官運動」の解説は、「伊達重村」の解説の一部です。
「猟官運動」を含む「伊達重村」の記事については、「伊達重村」の概要を参照ください。

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