長久・寛徳の荘園整理令
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「荘園整理令」の記事における「長久・寛徳の荘園整理令」の解説
だが、実際の政務を行っているのが最大の荘園領主である摂関家以下有力貴族であったこと、国司側も任期が終了に近づくと、次の役職を得るための一種の猟官運動として、国司免判による国免荘を設置することで有力貴族による荘園実施を認める傾向にあったために多くの例外が生まれ、実効性が乏しかった。 そこで、後朱雀天皇の代の長久元年(1040年)、内裏造営を名分として、現任の国司の任期中に立てた国免荘の停止を命じる長久の荘園整理令が発布される。なお、この長久の整理令を進言した但馬守藤原章信は関白藤原頼通の家司で、頼通とも相談した上で進言を行っており、摂関家が国司が求める荘園整理に常に反対していた訳ではないことも注目される。 更に後冷泉天皇の代の寛徳2年(1045年)、寛徳の荘園整理令が発布される。この整理令は、前任の国司の任期中以後に立てた国免荘を全て停止し、これに背いた国司は解任して今後一切国司には任用しないと言う罰則を設けることで、不法国免荘を整理しようとした。 違法の寄進地系荘園や国免荘の増加の流れは止まらず、国衙領は次第に不法荘園に侵食されるようになっていった。
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