長久保宿場札
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/04 14:23 UTC 版)
安政6年(1859年)に幕府が神奈川、長崎、箱館の3港を開港し外国との交易が盛んになり通貨の需要が高まると、偽二分金が流布し、従来からの銭貨や明治政府により発行された太政官札の不足も手伝い、明治2年(1869年)- 明治3年(1870年)に小額通貨が大量に不足し、経済に大混乱をもたらす。この際に、信濃諸藩では、「信濃全国通用銭札」を発行し、また主要な街道の宿場では宿場札を発行し対処した。特に中山道では多く発行されたが、長久保宿では明治2年10月まで使用された「縮限通貨」を六百二十四分、百分、四十八分、二十四分の4種類を発行し利用した。
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