独占と競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 23:39 UTC 版)
「ユナイテッド・ニュージャージー鉄道運河」の記事における「独占と競争」の解説
カムデン・アンド・アンボイ鉄道は、ニューヨークとフィラデルフィアを結ぶ輸送の独占を法的な手段で守ろうとした。この独占は、法律に守られた独占の期限が切れた7年後の1876年5月1日に、ナショナル鉄道(英語版)の開通でついに破られることになった。 1831年1月19日にニュージャージー州はデラウェア・アンド・ラリタン運河の特許の補足条項を制定し、運河に沿って鉄道の建設を認めた。しかしこの件はすぐに、カムデン・アンド・アンボイ鉄道とデラウェア・アンド・ラリタン運河の連合体によって議論の的になった。1831年2月15日にカムデン・アンド・アンボイ鉄道とデラウェア・アンド・ラリタン運河は合同会社となり、重要な意思決定はすべて合同の取締役会によってなされ、株式も統合された。 1831年2月4日に、州に1,000株を割り当てることと引き換えに、カムデン・アンド・アンボイ鉄道から3マイル以内の場所に建設される鉄道を9年間禁じる独占権を与える法律が通過した。1832年3月2日に通過した「保護法」では、この権利をニューヨーク-フィラデルフィア間のニュージャージー州を横断する輸送に関しての独占に拡大してカムデン・アンド・アンボイ鉄道とデラウェア・アンド・ラリタン運河の合同会社に与えた。1854年3月16日、この排他的な権利は、カムデン・アンド・アンボイ鉄道がウェスト・ジャージー鉄道など他の鉄道会社を支援し、また本線を複線化することを条件として、1869年1月1日まで延長された。 1835年の夏にロバート・ストックトンはトレントン・デラウェア橋およびフィラデルフィア・アンド・トレントン鉄道の株式を購入して支配権を握り、カムデン・アンド・アンボイ鉄道との競争や、ニューブランズウィックでニュージャージー鉄道と接続するための法的な闘争を終わらせようとした。10月12日に、カムデン・アンド・アンボイ鉄道とデラウェア・アンド・ラリタン運河の合同取締役会はフィラデルフィア・アンド・トレントン鉄道の買収を承認し、契約は11月11日に署名され、これによりフィラデルフィア・アンド・トレントン鉄道はトレントンとニューヨークの間のすべての輸送をカムデン・アンド・アンボイ鉄道経由で行うことになった。1836年1月12日にフィラデルフィア・アンド・トレントン鉄道の取締役会にカムデン・アンド・アンボイ鉄道派の人間が選ばれ、さらに6月1日にこれらの3社の株式は按分されることになった。 1862年9月1日、ラリタン・アンド・デラウェア・ベイ鉄道 (Raritan and Delaware Bay Railroad) およびカムデン・アンド・アトランティック鉄道 (Camden and Atlantic Railroad)、そしてラリタン・アンド・デラウェア・ベイ鉄道の北端のポート・モンマス(英語版)から蒸気船でニューヨークへ連絡して、競合相手となる運行が開始された。この共通の脅威の出現に対して、カムデン・アンド・アンボイ鉄道およびニュージャージー鉄道はより緊密に協力するようになり、10月1日に協定が結ばれた。 後にセントラル・レールロード・オブ・ニュージャージーの一部となるニューアーク・アンド・ニューヨーク鉄道は1869年7月に開通し、ニューアークより東の区間でニュージャージー鉄道に対する競合相手となった。
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